移住して創造的で持続可能な新しいワークスタイルを手に入れた、丹波市唯一の能楽師
上田敦史さん
「能楽」と聞くと、日本の伝統芸能というくらいで自分の知らない世界のように感じる方も多いかもしれません。ですが、かつて丹波地域には「丹波猿楽」と呼ばれる能楽のルーツの中で大きな勢力がありました。五穀豊穣を祈願したお祭りなどで演奏され、一般の方にも身近な存在だったそうです。
今回のインタビューは丹波市で唯一の「能楽師」であり、5年前に大阪から丹波市へ移住してこられた上田さん。能楽師としてのこれまで、丹波市で能楽を伝え、歴史的財産とも言える「丹波猿楽」を復活させる活動をされている今について伺ってきました。
我々能楽師の中では「丹波猿楽」は有名ですね。ただ、現時代に丹波猿楽が何かしら形を残して受け継がれているかと言われると、残っていないのが現状なんです。ですが、今の能楽の名家の中に人間国宝を排出するほどの丹波猿楽ルーツの名家があります。
調べているところなんですが、例えば大和の大和猿楽、近江の近江猿楽、摂津の摂津猿楽とか、この丹波猿楽とか、いくつか名前がしっかり通っている猿楽の地域はそれぞれ米どころなんですよね。当時はお金イコール米なんで、人の行き来があって文化が流入しやすい場所だったのではないかと考えているんです。
丹波市でも五穀豊穣を祈願して秋に祭りがあったり、丹波猿楽の名残を残す民俗芸能が残っていて、その保存会の方たちから「最近の若い子たちはやりたがらない、恥ずかしがってやれへん」と相談を受けることもあります。でも本来は逆なはずで、そういう場に出れるということは地方の中でも有力な家の人間であったりその師弟だけだったりして、大変名誉なことだったんです。
元々猿楽は、聖徳太子が人々のため、国家繁栄のために様々な物語をつくれと命令し始まったというルーツを持ちます。その歴史は深く、なんと約1300年前になると上田さんは教えてくださいました。地域によっては地震や戦争でその文化が途絶えたところも多く、この文化を復活させようとしていること自体が「能楽のおこりを追体験している」ように感じておられるのだとか。
上田さんが能楽に触れたきっかけについても伺いました。
単純な理由なんですけど、僕の父親が能楽の囃子方(はやしかた)で、専門が太鼓です。兄が太鼓を継ぐことになりまして、僕は特に強制ではなかったんですが幼い頃から能の舞台に立つことが続いて。子どもがやる子方っていう役があって、ずっと子方として舞台に立ち続けていたんです。子方ができる年齢を終えて、しばらくお稽古から離れて普通の学生生活を送っていたんですね。
高校二年生くらいになった時に囃子の方をやってみるか?と言われて、能楽師になることを考え始めたころ、私の師匠である大倉源次郎先生の舞台を見た時に、小鼓って華やかですごくかっこよく見えまして。その頃に入門しまして約1年後に、篠山市の翁神事に出させて頂いたんですね。それが僕の初舞台なんです。それ以来、毎年篠山市の翁神事には出仕させて頂いて、こちらの方に来るきっかけにもなったんです。
子どもの頃から能楽の舞台に立っていた上田さん。その当時はご褒美目当てであったり、意味もわからない中「やらなくちゃいけない」という使命感のような気持ちで舞台に立っておられたそうです。「好きでというのは本当になかったと思います。恥ずかしながら。」と上田さんは子どもの頃を振り返りますが、それでもすごい緊張感の中で取り組んでいる大人たちの中で、絶対に余計なことはできない、間違えられないと仕事でやっている意識があったそうです。
能楽師としての手応えを感じた30代を過ぎて、家族のため丹波市へ移住することを決断した。
子どもの頃は能楽のことを「よく理解していなかった」と話す上田さん。能楽の仕事のことを楽しいと感じるように心境が変わってきた頃と、その当時のことについて伺いました。
好きだな、と思うようになったのは30代くらいだったんじゃないかなと思いますね。それも本当に好きだな面白いな、って感じではないんです。なんか「すごいことやってるんだな」と感じたことと、難しさであったり苦しさであったり、そういうものが何か結果を生み出した時に「ああ、好きなんだろうな」という感じですよね。楽しいだけで好きっていうような世界でもないところもあると思っています。
20代は修行に必死で、師匠のお供をしたり雑用したりといったことに追われる日々だったと思います。それが、30代くらいになると自分の舞台に取り組むようになってくるんですよね。そうするとそれくらいの時に自分でやってて鳥肌の立つような瞬間であったり、見に来てくれた人たちからよかったよというような話を聞いたり。その頃に充実感の伴った楽しさを感じたりすることが多くあったと思います。
能楽師としてのお仕事にやりがいを感じ、順調に周囲の評価がついてきたころ、上田さんはあることを考えるようになります。そして、その結果5年前にご家族で丹波市へ移住してくることになります。
能の仕事を半分くらいにしても、農ある暮らしをしないといけないんじゃないかと思ったんです。ちょうどその時は東日本大震災があったりとか、自然災害に見舞われて、今の生活はそういうのが来たら成り立たないんじゃないか、家族を守っていけないんじゃないかと。我々の芸能の力っていうのは、平和な時には生活の糧になるけど、一旦世の中がバランスを失った時には、それで生活をしていくのは考えにくいなと。やっぱり生活をしていくには食べていくのが大前提ですよね。その時に、自分たちで畑やったり田んぼやったりできる環境にいること。当然今の世の中で能楽でやらせていただいているので今すぐという話ではないんですが、そういったことが起こった時に自給自足の暮らしにシフトできるような環境にいることが僕の中では(初舞台から縁のある)丹波だったんですね。
そして、丹波に来た時に何か霊的な力を感じたんですね。何か理屈では説明できない気の流れなのか、ここにいてたら生活していけるような気がしたんです。神社で綺麗な水もとれますし、家には薪ストーブがあって木さえあれば暖もとれるし料理もできる。自家発電もしておりますからインフラが当面だめになったとしても何とかやっていける。そういう暮らしにシフトしました。
暮らしを考えた丹波市移住、上田さんにとっても意外なほど、丹波市だからできる能楽の仕事があった
実は僕は、仕事と住む場所というのは分けて考えてたんですよ。丹波市に住んでから色々とご縁があって丹波にまつわる色々な能の仕事をできるようになってきたのですが、それは全然想定していなかったんですね。元々は農ある暮らしっていうことで、半農半能みたいなことを少しやりながら生活できないかなと考えていたんです。
はじめは能楽のお仕事を半分に減らしてでも、農のある暮らしをする必要があると感じた上田さん。ですが、丹波市に来たことで丹波猿楽のことを勉強し、新作能や新作狂言を手掛けたり丹波が誇るものの表現を書き下ろして上演していくという「新丹波猿楽」という活動も始めたりと、ご本人が思っていた以上に丹波市での能楽のお仕事がたくさん増えていき、今では農に携わる時間が少なくなってしまったのだとか。ただし、いつでも始められる環境があること、に意味があると上田さんはお考えのようです。移住した当初は能楽師の仲間の方達に随分不思議がられたそうです。
現代の能楽師っていうのは機動力勝負なんですよ。例えば1日に2箇所かけもちで行くとその分倍経験を積めるし倍収入も得れるし、みんなやっぱり便利なところに住むわけです。例えば関西圏だけでなくて東京や名古屋、九州でも能は盛んですので、とにかく主要な路線の近くに住むことによってすぐに新幹線に飛び乗れる、極端に言えば新大阪に家を構えてたらすごい色んなところに行けますよね。
なので、そういう風な生活を選ぶ人がほとんどです。稽古場を開いたりする際にも、移動がスムーズにできる場所の方が利点が多いわけです。だから僕がこっちに来たときに本当にみんなに不思議がられました。僕も自分の意図を師匠以外にはあまり詳しく話さずに来たのもあるのですが。
移住を考えた時、師匠のお手伝いを今まで通りできなかったりすぐ出てきてくれと言われて対応できない距離であったりする面があると考え、申し訳ありませんと上田さんは師匠に説明に行かれたそうです。ですが、師匠は「人の幸せっていうのは、人それぞれでいいと思うよ。バリバリ能の舞台で活躍できるような便利なところに住んで研鑽していくというのも大事なことだけど、行ったところで能の文化に花を咲かせるというのも、俺はいいと思うよ。」とおっしゃってくれたそうです。そうして上田さんは背中を押され、すぐに移住を決めることになります。
そう言って頂けるまでは、師匠とのことが一番悩んでいたところでした。「お前は現場の第一線から逃げんのか」と思われても困るなあと思いましたが、それより家族の安全とか幸せというのが第一優先だったので、僕は少々距離が遠くても通ってやろうと思ってたんです。結果、こっちに住んだからといって仕事が減ったりすることもなく、逆に仕事が増えましたね。自分自身が手がけ、プロデュースさせて頂く仕事が3倍か4倍くらいに増えました。大阪にいた時は雇われて行くのがほとんどだったんですが、丹波市に来てからは色んなところで講演させてもらったりとか、私自身が企画したりとか、それを丹波市とか兵庫県が応援してくださるという立場になれたので、これは師匠が言ったことに対して上回るほどの答えをお見せすることができたのじゃないかなと。
丹波市で表現する、能楽師の新しい持続可能なスタイル
例えば奈良とか、都市部は便利だけどちょっと足を踏み入れたら丹波と同じような田舎のところで猿楽文化はあるんです。「重要無形文化遺産」とか「世界無形文化遺産能楽」とかではなくて、もっと地元の潜在的な歴史文化を体現できるような大衆よりなもの「田楽とか猿楽」とかよばれていたようなものがありますね。
日本文化草創期のような力強い「物事の本質を深く掘り下げ、練り上げていく」という日本の農耕文化の精神性の基礎的な考え方のような創造が各地で起これば、それが持続可能な農業になり、持続可能な芸能で祈りを捧げて発展していくと思うんです。それを捧げていたのが我々猿楽師なんですね。
2年ほど前にバチカンで「翁」を上演させて頂いたのですが、バチカンはカトリックの総本山ですから、他の宗教的な催しはできないと思うんですね。でも、「翁」はOKだったんです。それは宗教というよりは宗教に囚われない「祈り」だと考えてもらったんですよ。キリスト教の巨大な宗派がその多様性を理解して認めてくれたというのは、世界平和にとってものすごい前進だと思うんですよ。
丹波市に来てから、創造的な仕事をすることが多くなったと話す上田さん。丹波市唯一の能楽師だからこそ、能のことで何かを考えた場合にみな上田さんに連絡が来るそうです。そして、新しい台本を生み出したり創造的な仕事を楽しくやっている今にとても満足しておられるそうです。「比べてどうこう、というより自分はこっちが良かったなと思います。仮に全責任を自分が負ったとしても、結果も全部自分に返ってくるというやりがいがありますね。」と上田さんは楽しそうに語ってくださいました。
丹波市唯一の能楽師として。これから丹波市でやっていきたいこと。
丹波猿楽を世界に伝えていくということをやりたいと考えています。そのために、この文化は誇りであり、素晴らしいものであるということをちゃんと伝えていくことが大事で。子どもたちが後継者を嫌がるというのは、やっぱりその根幹をちゃんと教えないからだと思うんですね。
また、みなさんそれぞれ学校教育を受けてきて、思い込んでいることってあると思うんですよ。失礼ですが「これが音楽だ」って思い込まされている音楽は全部西洋の音楽なんですよ。今全世界に広がっている「能」という日本独自の音楽の文化があったのに、西洋の音楽だけを学んで育って、日本独自の音楽に触れないというのはフェアではないと思っています。
子どもたちの教育の中に日本の誇るべき文化である能を取り入れるべきと考えた上田さん。文化庁に申請を出し、自分たちの手の届く範囲の学校にまず音楽の授業として能を取り入れることを提案されました。そして、自らチームを編成して、学校の体育館で囃子を聞いてもらったり、楽器に触ってもらったりする芸術家派遣事業を移住してきてすぐに始めたそうです。丹波市で5年、今では教育委員会の方が協力してくれるようになったのだとか。
さらに、これは一時的なものだと思ったんです。そこで、子どもたちが猿楽を演奏して、発信するようなシステムを作れたらどうなんだろう?と考えたんです。1年くらい子どもたちがお稽古して、舞台に立つと。そのために始めたのが「新丹波猿楽座」なんですね。みんなお稽古も楽しんでやってくれているし、親御さんにもとても評判がいいんです。
こうやって日本独自の文化であり音楽である能に触れておくことで、その子たちは世界の音楽をよりフラットな目線で楽しめるんじゃないかなと思っているんです。音楽について造形の深い国に行くと特に質問が鋭いんですよね。自分たちの文化をよく知っているから、よその国の文化にも比較文化論的にすごく掘り下げてみようとします。そうして会話も弾みます。自分の国の文化が芯に入っていることで、ほかの国の文化をより深く知ろうとするのではないか、それこそが国際人ではないかと私は考えているんです。
それともう一つ、新たな仕事の形というか、一生縁がないと思っていた能の台本を書くという仕事を始めています。
上田さんにお話を伺ったところ、「能」は600年の歴史の中でずっとブラッシュアップされ練りに練られたもので、言葉の完成度が一部の隙もないという作品が多いのだそう。舞台に出ている上田さんは、それをからだで感じて来ていたと思うとおっしゃっておられました。
世阿弥は、書いた能の伝書の中で「能の命は、能の新しい台本を書くこと」と言い切っています。それは、その書かれた当時だから(台本が完成してなくてそう言っていた)かなと思ってたんですよ。でも今、自分で一曲を書き上げてみて思うのは、自分自身が能を書けるような取り組み方をしていけばいいんだなと。20年30年能に携わってきた人たちは、それまで培ってきた経験の中から新しい能の台本を書けるんじゃないかと。例え簡単な能であっても実際に作って上演し、現代人の目線で、現代のテーマで書いた台本の中から名曲が育っていくことがもしあれば、それもまた能にとって良いことだと思うのです。
そして今、上田さんは丹波市の中心に当たる黒井城の城主だった赤井直正公の台本を書かれています。「昔戦争があって、ここではたくさんの人が亡くなったという話を聞いた時に、『能』というのはそういった人の魂を静めるものでもあったんだろう。」と思ったそうです。
直正公のことを調べて、すごく強い武将だったのに病気で死んでしまったことを知ったんです、そしてそれは無念なことだっただろうと。この台本の話を、丹波の人たちに聞いてもらって手を合わせる気持ちになってくれたらいいなとも思っているんです。それから、直正公のことを調べて能を作り出した後に、明智光秀の大河ドラマが決まって、大河ドラマのロケ地を黒井城に誘致しようという話も出てきて。人とのつながりが、大阪にいた時とは比べものにならないくらい密なので、そういったことが度々丹波で起こるというのは想定外のことでしたね。
取材を通して、上田さんの生き方や能楽、そして文化に対する深い想いに感銘を受けました。そして、能楽師として新しいスタイルを丹波市で作っておられる姿勢にこの方は非常にクリエイティブな方だなあと思わされました。この黒井城の直正公について書いた上田さんの台本は、2019年4月28日に黒井城で開催されるお茶会のイベントで披露されるそうです。「祈り」の文化だという能の表現で、どのような新しい地域の魅力が引き出されるか、イベントが楽しみです。