30歳の節目を目前に、丹波市へUターン
奥畑拓海さん
こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
丹波市柏原町で生まれ育ち、地元の学校を卒業後、大阪の大学へ進学した奥畑拓海さん。卒業後は給食業界や金融、デリバリー業、飲食店の立ち上げなど、多彩な仕事を経験してきたとのこと。社会人として大阪で過ごす中で、さまざまな現場を通じて人とのつながりや「食を支える現場の面白さ」に惹かれ、次第に自分の原点である丹波での暮らしを意識するようになったといいます。
30歳という節目を前にUターンし、家業である柏原駅構内の「レストラン山の駅」で働く奥畑さんに経緯を詳しくインタビューしてきました。
働くことを通じて見つけた“Uターン”という選択
生れ育ちはどちらですか?
生まれも育ちも丹波市柏原町です。崇広小学校、柏原中学校、柏原高校とずっと地元で育ちました。その後は東大阪にある大阪商業大学に進学しました。ふたを開けてみたら、家業のお客さんとか両親の知り合いがいたりと、丹波から進学してた人が多くてびっくりしましたね。
そこへ進学したかったんですか?
いや、結果的に滑り止めで流れ着きました(笑)
本当は近畿大学に行きたかったんですけど、当時近大の競争率が全国で一番高かったので、難しかったんです。早々に進路を決めて、早めに受験は終わらせました。
大学受験は一般入試ですか?
はい、普通に一般入試ですね。当時は指定校で決める子がちょこちょこいて、大体みんな冬まで受験勉強してたと思います。
なるほど。大学から一人暮らしで?
そうですね。大学から実家を出て、東大阪で一人暮らしをしてました。こっちに帰ってくるまで何度か引っ越ししましたけど、ずっと大阪でした。
大学時代は何をしていましたか?
在学中は学生スタッフと言って、大学職員さんと一緒にオープンキャンパス等で大学に来る高校生を案内したり、進路相談を受けたり、大学の魅力を伝える活動をする団体に所属してました。そんなに大きくはない大学でしたが、毎年60人は入ってましたね。
大学生活を振り返ってみて、どうですか?
“The 大学生”って感じだったと思います。飲食店でたくさんバイトもしてましたし。バイトしてる時に大人の社員さんとか上司の働き方なんかを見ていて、飲食業をより身近に感じるようになったかなと思いますね。
大学卒業までの間、実家の手伝いはされてたんですか?
高校生の頃はサッカー部に入ってたのでほとんどしてなかったですね。たまにお皿下げたり、お客さんが来たら案内してたくらいでした。
ご両親は家とか店を継いでほしいとは言ってなさそうな感じですが。
そうですね、それはどちらかと言えば反対してたかなと。やはり、自分達もずっと順風満帆にやってきた訳ではない分、同じような経験を子どもにさせたくないという感じだったと思います。
では就職活動はどんな感じだったんでしょう?
就職活動は、4回生の8月から始めたので遅かったんです。というのも高校時代、サッカー部の顧問の先生に憧れていたのもあって教職課程を履修していて、母校へ教育実習に行ったりもしてたんです。
結果的に教職は断念して、なんとなく親の影響もあって食に携わりたい気持ちはありましたが、最初は飲食店で働く以外のことがしたいと思っていたので、学校給食の委託会社で、業界の中でも割と上位の規模感の会社に営業で入社しました。
なるほど。営業やってみてどうでした?
最初は規模が大きいと分かって入ったんですけど、会社と自分のやっていることと、今後の展望がうまく結びつかないことが多くて、やきもきすることが多かったんです。上司ともソリが合わなかったりで。
その状況を見かねた西日本エリアのお偉いさんが「一度現場へ行ってみたらどうか」と、給食を実際に作る現場の方に異動を出してくれたんです。それが結果的に、社会人になってから一番最初に飲食で働くきっかけになりました。
現場ではどういうことをしたんでしょう?
老人ホームや学生食堂、社員食堂のキッチン現場ですね。鳥取とか姫路、岡山と結構遠方に出張で行っては現地に泊まってといった生活を2カ月ほどしました。朝5:30頃から、今ではあり得ない量のご飯を作っていましたが、そのありえないことが妙に楽しかったですね。
でも「色んな人たちが色んなカタチで支えているから会社が成り立っている」ということが、この時に初めて分かったんですよね。「僕は現場が向いてるな」と思って、楽しく働かせてもらってました。
その後はどうなったんでしょう?
その会社は結局1年程で辞めて、そこから違うことをしようと思って、金融関係の営業したり、コロナ禍で流れがきてたデリバリー業の仲介をしたり、淀屋橋のホルモン鍋屋の立ち上げからマネジメントの立場で働かせてもらったり、色んな仕事を経験しました。中にはたった5日間で、人生で初めてクビを宣告されたこともありました(笑)
そんな中で、人と何か共同で経営することの難しさとか、たまたま親父の知り合いの店と知らずに飛び込んで即座に契約を頂くというミラクルがあったりして、親の偉大さを実感したり。振り返れば色んな仕事をする中で今に生きるいい経験ができたなと思いますね。
いいですね。こちらに帰ってくるきっかけは何だったんでしょう?
帰る直前は、大阪市の福島にある海鮮居酒屋で2年程働かせてもらっていました。以前から「いつかは地元に帰ろう」となんとなく決めてましたが、30歳も目前となってくると、それを節目として、自分の在り方を変えたくなってきたんです。
やはりコロナ禍以降、都市部から地方へ足を運ぶ機運が高まってきましたし、丹波もすごく賑わってきているのを感じていたのもあって、自分も若くて色々吸収できるうちに、早めに帰った方が後々できることが増えるんじゃないかと思って、帰ることに決めました。帰ってきたのは2025年9月中旬でした。
30歳はなんか大きな節目感がありますよね。
そうですね。特に直前まで働かせてもらっていた会社にはすごく感謝してますし、社会人として大切なことを沢山教わりました。最後には社長が背中をすごく押してくれましたので、ここからは丹波で活躍することが恩返しになるのかなと感じています。
帰ってくるって言った時、親はどんな反応でした?
電話で伝えたんですけど、「目が点」ってやつでしたね。『マジで?』っていう感じで(笑)
でも多分、帰ってくるのはなんとなく分かってたと思うんですけど、タイミングは数年後くらいになると思ってたんじゃないかなと思いますね。
一度外に出てみて感じる、丹波市での暮らし
改めて、高卒から12年ぶりに帰ってきた丹波市はどうですか?
なんとなく、「町が小さくなった」っていう印象がありましたね。
車が運転できるようになり行動範囲が広くなると、子どもの頃過ごしていたエリアは狭く感じますよね。
そうですね。以前は「すごい狭いエリアで生きてきたな」と確かに思います。でも、両親の影響もあってか、色んな大人に囲まれて育ててもらった自覚があるので、狭い範疇でも昔からずっと楽しく生きてきたなとも思います。だから、「帰ってきてもなんとかやっていけるんじゃないかな」という気持ちもありましたね。
高校までの間、市島町とか青垣町とか、丹波市内の他の町にいくことはありましたか?
基本なかったですね。それこそサッカー部の練習や試合とかですかね。あとは友達の家に泊まりにいったりしたぐらいで、何か目的がないと行くことはなかったです。そう考えると、柏原町というのは幸いにも中心地なところがあるので、事足りてたのかもしれないです。
同じように帰ってきてる同級生はいますか?
そうですね、割と子育てしてる同級生がちらほらいるのと、僕みたいに家業きっかけに帰ってきてる子が結構います。それでたまたまラッキーなタイミングで会えたり、逆に小さい同窓会をしたりとかで会ったりしています。
普段お店で働いてる時以外は何かされていますか?
帰ってきてまだ少ししか経ってませんが、用事のついでに大阪や神戸に遊びにでかけたり、何もない休みの日は家でずっと寝てたりですね(笑)
なんか、「こっちの生活はこんなに静かだったんだな」と思いますね。僕が年を重ねたら、もっと居心地が良くなっていくような気が潜在的に感じます。なんか空気が良すぎて体が喜んでるというか。
空気は間違いなくいいですよね。
それはなんとなく20代前半の時から感じてましたけど、やっぱり都市部の空気は淀んでるなって思ってましたね。それが知らないうちにストレスを感じてたりしてたんだろうなっていうのは思いました。こっちがあまりにも快適で。
ありがたいことに、祖父母の知り合いが野菜とかをくれたりする時、いただいたもので何を作ろうかなと考えるのが好きです。そういう恩恵って、やっぱり田舎ならではだと思うんで、そういうのも生かしていきたいなって思いますね。
高校生まで暮らす中で、以前この辺の暮らしについて不満に感じることはありましたか?
僕はあまりなかったですね。当時の実家は裏が田んぼで、その先のJRの線路を抜ければ柏原川があるんですが、昔はホタルがめちゃくちゃいて。子どもながらに「いいとこ住んでるな」と感じてました。不便さも特に感じず、昔の方が身近なものに感謝できてたなと思います。
でも、やっぱり人口減少や担い手不足なんかの影響なのか、水質も以前のように保てなくなってきてホタルも減ったような気もするので、そういうのを感じると、寂しくもありつつ、自分も大人になってきたなっていう実感がありますね。
もうサッカーはやってないんですか?
してないですね。でも、今の生活をしてたらすぐ太りそうなので、同級生に声をかけてフットサルでもやろうかなと思っています。
これは僕だけじゃなく、同級生あたりもきっと同じ気持ちだと思うんですが、丹波は住みやすいけど娯楽が足りてない感覚はあると思うんですよ。週一でもそういった機会があればいいなと感じますね。
娯楽は確かに少ないですよね。
先日、中学時代のコーチだった方から誘ってもらってフットサルをしたんですが、20代前半の子が何人かいて。もうフットサルとか抜きで、みんなどうやって生活してるのかを居酒屋とかで話聞きたいと思いながらプレーしてました(笑)
僕は家業の影響で、昔から年上の人と話すのに慣れてますし安心感もあるので、大人がいる社交場に顔を出すのが楽しいと感じるんですよ。だから普段の休日も、自然と同年代以下の人と関わる機会が少ないので、これから少しずつでも今の若い人たちと接点が持てたらうれしいですね。
これからのこと
これからの展望を教えてください。
家業は、自分が帰ってくる前からずっと祖父母、両親、おばさんと身内で回っていたので、自分が帰ってきた余剰分の労働力を、夜の営業をしたりとか、また違う仕掛けに使っていきたいなっていうのは父親と話してるんで、そこに当てれたらいいかなとは思いますね。
お客さんが何を求めてて、それに対し何をどう提供するかを、これからしっかり掴んでいきたいと思います。
これまでと違って、「親と一緒に働く」というのはどういった感覚でしょう?
やっぱり家族ゆえに難しいこともありますね。今は実家暮らしなので、仕事が終わった後も顔を合わせる訳で、たまに食事の時とか極力話したくないと思う時もあります(笑)
一番分かり合えるようで、分かり合えないところもあるというか。でも、切っても切れへんみたいな。難しいと思えば難しいですし、でも容易いと思えば容易くて。だからもう、それは考え込むべきことじゃないなと、若干2カ月にして思ってます。
家族経営ならではの感覚ですね。
それで、何かを自分の感情で押し進めるより、家族の気持ちや考えといった流れに逆らわず受け止めていきつつも、絶好のタイミングで仕掛ける準備だけはしておくのが一番いい気がしています。
ただ、やっぱり一番面白いのは、おばあちゃんに会いに来る人もいたら、おじいちゃんに会いに来る人もいて。母に話したいから来る人もいれば、親父を訪ねる人もいて。みんながみんな、それぞれお客さんとの繋がりがあるっていうのは面白いなって思いますね。
確かに、そもそも親子3世代にわたって飲食店してるのは珍しい気がします。
お店していくのに、なかなかいいネタですよね。僕もこれから関わっていく中で、自分だけのお客さんが来てくれるようになって、お客さん同士がどういった感じになっていくのかが楽しみです。
家業以外に何かやっていきたいことはありますか?
今はまだ明確にこれがしたいというのがないんですが、横の繋がりを作っていきたいと思いますね。丹波は割と個人個人がそれぞれやってるような印象があるので、もっとまとまりが作れたら市外の人をより多く呼べる何かに繋がる気もしますし、そういった取り組みを、無理なく時間をかけてやっていけたらいいなと思います。
すごくいいものが沢山あるのにもったいないという感じがあるので、自分がそこに少しでも関わって力になれたらうれしいです。
「30歳を節目に」という話は、これまで色んな人たちをインタビューしてきた中でも度々出てくるキーワード。それはIターンでもUターンでも同様なんですが、しかしながら世の中の全ての人が30歳を節目にする訳でもなく、それまでと同じ生活を選ぶ人もいます。ただ、一昔前に「人生60年」と言われていたからか、「60歳で定年」だったからか、なんとなく30歳という年は、人生の折り返し地点のように感じられ、恐らくほとんどの人がそれまでの人生を振り返る機会であることは間違いないように思います。拓海さんと年が近い皆さんは、彼の人生に触れて、ご自身の節目を味わってみてください。