規格外の変人は常識人?シェアビレッジという新しい暮らしのスタイル
吉田健さん
他の地域でも似た呼ばれ方をするかもしれませんが、丹波市の移住者の中には最上級の褒め言葉で「変人」と呼ばれる人たちがいます。自分の想いや叶えたいことに対してまっすぐで、世の中の一般的な平均値からは少し離れたスキルや力を磨いてきた人たちのことを、TurnWave編集部もそのように呼ばせてもらうことがあります。
今回の取材は、神戸から丹波市氷上町の奥地に引っ越してきて約13年、久々に取材チームが「規格外の変人だ・・!!」と唸った吉田さんのインタビューです。
15歳から働き、大工としての独立から、経験したこと
吉田さんは神戸出身。15歳から大工の仕事を始め、20歳で独立。24歳で会社をたたみ、27歳から約1万坪という広大な土地を舞台に「シェアビレッジ」という場所を形づくる準備をされています。もうこの時点で既に気になることだらけですが、順を追って吉田さんについて聞いてみます。
15歳で仕事しだしたんやけど、学校行けんくてさ。中学校も2年くらいしか行ってなくて(笑)残念やったからやろうな、「お前もう来んでええ」って(笑)。それで学校行かんくなったんやけど、最終的に先生が休みの日だけ釣りに誘ってくれるようになって。「お前ほっといたら絶対悪いことするから、俺が休みの日遊んだる。」言うて(笑)
15歳の時、親方にひろってもらったんやけど、その時は親戚のおいちゃんが現場監督をやってて「お前どうせ暇やろ、来い!」みたいな感じで呼ばれて。どうせ高校行かんと悪さしかしてへんねんから。と(笑)。その時に現場に来てた親方が、お前オモロイやつやからうち来いって言って。たぶん親戚のおいちゃんは現場監督にするために引っ張ってくれたんやと思うよ、自分の次サポートしてもらうために呼んでくれたんやろうけど、結局大工さんに仕事させてもらうようになって。
高校に進学しなかった吉田さんですが、親戚のおじさんの声がけで大工の道に進むことになったそうです。学校では先生の言うことを聞けなかった吉田さんですが、大工の親方さんとは気があったそうです。
親方面白かったからね、大工の親方やのに調理師免許持ってたり、フグの免許まで持ってて、結構ちゃんとフグ捌ける親方やったんよ(笑)そのへんの破天荒さみたいなんはやっぱり面白くて。あと、お金もらえたしね。その辺は大きいよ。社会ってこんな感じなんや、世間ってひと月でこんなお金もらえるんやって。
他にも、趣味が車やったり、男の人の趣味を教えてもらったりとか。おいちゃんと親方は仲良かったし、居心地も良くて。ずっと学校の勉強、国語とか算数は残念やったけど、図工とか音楽とか美術はずっと満点やったっていう子ども時代やったから、ずっと(能力を創作する力に)振っとったんやろうな。
で、20歳で独立して、24歳で会社潰して(笑)4年間で結構借金したんやけどこないだ完済するまで返しててね。
あっけらかんと笑いながら話す吉田さんですが、あまり聞きなれないエピソードが面白くて取材陣もつられて笑ってしまいます。24歳で会社をたたんでこの丹波に来る前はデザイナーのお仕事をされていた吉田さん。なぜ会社をたたむことになったかについても詳しく聞いてみました。
聞く?そこ(笑)うん、そうやね、基本的には大工さんやけど家具もやってて。親方は家具もやる人で、つくりかたも教えてもらって。大工さんの仕事をしつつ、自分でデザインした家具とかを出展したり、展示会出したりとかしたんやけど、展示会とか一回で出展料めっちゃかかるんよね。けどいっぱい出て。なんか、デザイナーになりたかったんやろなその時は(笑)
それでたくさん借金して、俺あかんなって思って。デザイナーとかちゃうわって(笑)お金返されへんくなったから、ちゃんと勉強しようと思ったけど勉強しようと思ったらお金払わなあかんやんか。でも俺お金返さなあかんやん(笑)そうするとお金もらいながら勉強できるところないかなって思って、神戸でグラフィックデザイナーの卵から仕事して3年くらい、その頃に母親がここ(丹波市)の土地を買って、古民家移築したいんやけどあんたしてくれへん?って言われてこっちに来ることにしたのが、ちょうど10年前くらいかな?
当時、各地で講演するお仕事をされていたお母さんからの声がけで、吉田さんは丹波市氷上町に移住してくることになります。吉田さんのお母さんは、この広い土地で都会の暮らしに疲れた方を呼んで、リトリート(※)ができるような活動をしようと考えておられたそうです。
※リトリート:仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分だけの時間や人間関係に浸る場所など
自分にしかできない仕事。
この家(移築した古民家)つくろうと思っても、なんやかんや機械いるやん?そんなん揃えてやってきたらさ、この家以外の仕事がたくさん入ってきて。
そしたら、全然進まへんよね(笑)ほんまはこの家やるために工場立てたのに全然進まへんよね~(笑)なんでやろなあ。まあでも仕事を頂けるのはありがたくて、お客さんは大阪とかが多くて、遠いところは岡山と熊本と沖縄と。基本的には古民家のリノベーションとかが好きやから、そういうのをメインでやってるよ。
吉田さんは、建築会社からの下請けや孫請けの仕事は一切受けないそうです。直接お客さんとやりとりしたり、古民家が好きな建築士さんと組んで仕事をするそうですが、その理由は、吉田さんのあるこだわりによるものだそうです。
工務店から下請けで仕事が来たら、お客さんの人となりがわからへんやん?そうするとその人がどういうのが好きで、どういう家族構成か、とかわからへんまま図面上のものを起こすことになるからね。何かそうじゃなくて、人となりがわかってると、あ、こういうの好きやろうな、とか、階段やったら手すりいるやろなとか想像して形にすることができるのがいいなって。
一切営業もしてないけど、一生懸命仕事はするよ。例えば梁とかバラしてきても、一回普通の木工機械通すと、サビた釘とか入ってるんよね。そういうのって柱も梁もまっ黒になってて見えないから、金属探知機で一回通してから、それから切り分けたりとかしなきゃいけないんよね。
他にも、うちの場合は建物だけでなく家具も作れるから、例えば古い建具をバラしてリフォームするとか、古いものを工場に持って帰って、家具にしてまた使ってもらうみたいなことができる。
去年、奈良県の今井町っていう町並み保存地区があるんやけど、そこのコーヒー屋さんをつくる仕事をする時に、古民家に元々あった材料で店舗の家具作ってくれ、みたいな話になって。テーブルを作ったんやけど、開店して半年後くらいにそのお店にいって話してたら元々のその家の持ち主さんがきて、そのテーブルをみて泣きはったって言って。思い出がそこにあったから。「この傷覚えてる」って。それがなんかすっごい嬉しくて。建築士と一緒に、やって良かったなあ、って。
思わず素敵な話だな、と聞き入ってしまいました。今この記事を呼んでくださっている方もそうではないかと思いますが、この辺りから取材チームは「このひと、実はものすごくちゃんとした人なんではないか・・」と思うようになっていきます。
自分の命と向き合う場所。シェアビレッジ。
シェアビレッジは、キャンプ場があって、お母さんが住んでて、宿とかレストランやって、と考えているのでそれを全部ひっくるめてシェアビレッジ。今建設途中だね。基本的には母が考えたのが最初で、誰が来ても大丈夫なような、人を癒せる場所をやりたいと思ってる。僕の生き方のお師匠さんがいるんやけど、ここを「自分の命と向き合う場所にしなさい」と言われたんだよね。
お話を聞いていて、きっと面白い場所になるんだろうなとわくわく想像をしていました。ちなみにどれくらいの時期の完成予定かと聞くと・・
完成予定?ないよ?(笑)とりあえず住める段取り、人が泊まれるような形は作れるかなと思ってて。一昨年土砂崩れがあったやん?あの茶色いところまで土砂で埋まってん。他にも雨で土砂が来たり、工事やって、埋まって、戻ってっていうのをここ数年やってるね(笑)俺のユンボの作業レベルも上がっていくよね(笑)木工だけじゃなく土木作業もできるようになって、万能になってきたよ(笑)
村に入ること。吉田さんにとって、「自然」なこと。
ここにいると、神戸におったら経験できへんことが多くて、村入り(自治会への加入)やったり。Iターンとかで来ると村入りに対して不安な気持ちがあるかと思うけど、僕からしたら村入りやったり村付き合いも含めて、それ自体がすごくいいなと思っていて。村入ってるし、山も村の人と同じ権利を持ってる。そういうおつきあいをしていくにはやっぱり何かしらのハードルは、地域の方達にはあったみたいだよ。最初来たばっかりの時2年くらいは、村の人とは距離があったけど、ある日役員さんが2人くらい来てくれて「そろそろ村に入って欲しいんや」って。あ、そうなんですか、じゃあ入りますね。って。
村に一回入れて頂いて話すると、丹波の人が、村の人がどういう風にここを変えたいと思っているかを、聞くことができる。そういうのを一方通行に、村のこういうのうっとおしいって言って閉ざしちゃうと、もう話し合いにも何もならないけど、僕らは来させてもらってる側やから、最初は。
やっぱり住んでる人たちの話聞かないと、こっちの意見だけを聞いては絶対もらえないから。そういう意味では村入りとかそういうシステムがあるからこそ、村の人から話聞かせてもらえる。昔はああやったとかこうやったとか簡素化されたとか、楽になったとか。
よく村の用事の日にち忘れるけど(笑)でもそれもひっくるめて、怒られながらでもなんかやってんのが最終的にこの場所におらせてもらって楽しいっていうことにつながってんちゃうかなと思うけどね。
やっぱり何年かいると、村の問題点とかを話し合ってる席とか、そこに水害があったから堤防つくるだとか、太陽光パネルが来るだとか、小さい問題はあって。それに対しては意見がちょっとは言えるようになったかな。
村の役員やっていた時が一番良くて。当時僕が役員をやっていた時に外国の方がこの村に入ってくるっていう話があって。
今、マイケルさんっていって住んではるけど、カナダの方やから考え方が日本人とは全然違う。村入りする、せえへん、村入りするとこういうお金がかかるっていうのが意味がわからないっていうのとか色々と問題があって。そういう問題を役員でまず話して、村の総会で広めるじゃん。
そうすると、僕らIターンだから逆に意見を聞かれたりとか。きた時どうやったとか、ここはこう思ったから、こうした方がいいんじゃないですかとか。村におってわからんことが僕らIターンやからみえたりして、今はマイケルさん村入りしてくれて一生懸命一緒に草刈りしたり、宮掃除したりしてくれてるから。そういう節々の問題は無くなったんやけど。
それがあったから、次から村に来た人に渡せる「こういう時はこうですよ、こういう意味がありますよ」という説明の紙ができて。次からIターンでもなんでもいいからこの村に入ってきたら区長さんから渡して、村入りするっていうのはこういうことですよというのができたりね。
でもさ、自然やんな。そうじゃない?
タイトル、そして冒頭から表現させてもらった「変人」について。吉田さんは間違いなく都市部にいてても「変わった人」「まわりとは違った人」だったのではないかと思います。ですが、吉田さん自身にとってそれは自然で、だからこそ他の人にとっての「自然なこと」「当たり前なこと」を無下にしたり、ないがしろにすることがないのではないかなと考えさせられました。村付き合いが面倒くさい、意味のない行事が多い、そうやって反対意見を言うのは実は簡単な事で、この村に入って自分が感じた問題点を、どうやって一緒に解決していくか、という方が本当に良い方向に変えたいと思う結果につながるということを、吉田さんの話で深く考えさせられました。移住定住を促進する我々も、取材をしながらこうやって移住する方に説明すると良さそうだなと、とても楽しく、実りのあるインタビューをさせていただくことができました。