紆余曲折も丹波市だから乗り越えた。微生物に興味を持ち麹にたどり着いた麹屋の話
本間 速さん
2017年から丹波市が実施している「お試しテレワーク」企画で丹波市の関係人口として毎年移住者のインタビューに来てくれる、東京在住のライターFujico氏。コロナ禍で2年の期間が空きましたが、感染状況が落ち着いたタイミングで再び丹波市に来てくれました。
普段、東京に住んでいる彼女の目には、丹波市の人たちの暮らしはどんな風に映るのか。
この記事は、彼女が丹波市での滞在期間中に出会い、交流された方へのインタビューをまとめたものです。
丹波市に興味がある方はもちろんのこと、丹波市に住む方々も楽しく見ていただければと思います。
※この記事は、2022年5月後半に行ったインタビューです。東京から丹波市に来る際にFujico氏には新型コロナウイルス感染の可能性がないかチェック頂き、十分な感染予防実施の上移動とインタビューを行って頂きました。撮影時のみ、マスクを外して頂いている写真もございます。
「田舎に移住をしたら幸せな人生が待っている」とは限らない。都会にいようと田舎にいようと、思いもしないことが起きて悩まされることもある。そこで大事なのは、乗り越えられる環境にいるかどうかかもしれない。高校生の頃、授業を通して微生物に興味を持ち、酒蔵への就職を希望した本間速さん。母親の実家が丹波市だったというご縁で、丹波市にある酒蔵に就職したものの、うつ病を発症し退職することとなった。2年半の治療・休息を経て、2021年に「おかしなこうじや」という麹屋をオープンした。3人の子どもを持つ父でもある本間さんは、困難をどう乗り越え、麹屋をオープンさせたのか。今、困難に立ち向かっている人にもきっと参考になるであろう。
高校の化学の授業で微生物に出会い、酒蔵への就職を目指す
街中から30分ほど山に向かって車を走らせる。点在する古い家の一つが「おかしなこうじや」の代表・本間速さんの工場だ。小鳥がさえずり、風が頬を優しく撫でる。そこにいるだけで癒される空間に、穏やかな本間さんは取材班を受け入れてくれた。
ここ、母親の実家なんです。もともと祖父母が住んでいて僕も夏休みや正月にはよく帰ってきてました。酒蔵に勤めた最初の4年間は、この家で祖母と一緒に暮らしていました。
もともとは兵庫県神崎郡という播州地域が出身の本間さん。地元の工業高校に通い、化学の授業で微生物実験を行ったこと、そして当時読んでいた「もやしもん」という菌が見える特殊能力を持つ、もやし(種麹)屋の漫画にハマったこともあり、微生物に関わる仕事がしたいと思ったという。
日本酒の発酵はすごく複雑で、世界的にも珍しい発酵だということ。そして母親が日本酒を嗜む姿を見ていたので、日本酒にポジティブなイメージがありました。なので自然と酒造業で働きたいと思うようになりました。
進路を決めた高校2年生の冬。意気込んで就職先を探し続けたものの、簡単には見つからなかった。
地酒低迷期の真っ只中。母親の実家・丹波市の酒蔵に就職が決まり移住
本間さんが就活をしていた2007年〜08年あたりは、本間さん曰くハイボールや焼酎が人気を集めており、日本酒の売上が低迷していた時期だったという。そんな時期に、経験が全くない高校卒業したての人を入社させてくれる酒蔵はなかなかみつからなかった。
全く就職先が決まらないため打ちひしがれていた僕の姿を母親が見て、丹波市の酒造に電話してくれたんです。そうしたらちょうど代表が代替わりした直後で、若い力を取り入れようとする酒造に拾ってもらうことができました。
地元の近くで就職先を探していた本間さんは、丹波市に移住するなんて露ほどにも思っていなかったという。しかし丹波市には毎年帰っていたことと、当時は祖母も生きていたので、移住することには全く抵抗がなかったそうだ。こうして本間さんは18歳の春、酒蔵に就職した。
普通の酒蔵だと一所十年と言われていて、10年かけて一つの工程を極めていきます。しかし入社した酒蔵はとても先進的な考えで、色々な経験をさせてもらえるところでした。1年目は原料処理、3年目は麹づくり、5年目はバランスよく色々任せてもらえました。
5年間かけて一通り酒造りについて学んだ本間さんは、6年目より営業になった。しかしこれが良くも悪くも転機となったのだ。
仕事もプライベートも抱えすぎてしまいうつ病を発症。酒蔵を退職
入社から6年目。当時、酒蔵には営業がいなかったため、新たな販路を広げるために本間さんは営業になった。
1年目はイベントやネットショップなど一般向けの販路拡大、2年目は法人営業に従事しました。全国チェーンのコンビニから小さい町の酒屋まで、一番抱えてた時は250社ほどあったと思います。
こんなにおいしいお酒なんだから、もっと売れるべきだ!という気持ちがあり、徐々に仕事を抱え込んで行ったという本間さん。営業をしながらスポットで酒造りにも入り、営業では京阪神エリア、東京、北海道と全国を駆け回っていた。忙しすぎて余裕がなかったのか、社内外に対しても自分に対してもずっと怒っているような感覚だったという。
最後の1年はマネージャーをやらせてもらえて、部下9人を抱えました。プライベートブランドの商品開発企画、人材教育、リクルーティングにも一部関わり…一番忙しい繁忙期に倒れました。
1ヶ月で3ヶ月分の売上が出る12月。一番プレッシャーがかかるこの時期に、しんどくなりしゃがみ込んでしまった。そしてその1週間後には立てなくなり、病院に行ったところうつ病と言われ、休職を余儀なくされた。
今思い返すと、プライベートの時間も仕事を意識して人に会っていたり、24歳で結婚したので家庭と仕事のバランスも掴めていなかったりしました。半年のお休みをいただけたのですが、職場に戻るのが怖くなって退職を決めました。
回復するまでの2年間と半年。立ち直れたのは丹波市だったから
うつ病を発症し退職した本間さんは、うつで仕事にも行けない、立ち上がれもしないと自分をさらに追い詰めていた。娘はこども園に通っているのに自分は…と思う中でも最終的に回復できた理由は、丹波市の人々が回復を急かさず応援してくれたからだという。
手を差し伸べてくれる人が多かったですね。誰一人として自分を焦らせることはなかった。ゆっくり休みなよって。そのおかげで休んでいる間、治療だけではなく自分と十分に向き合うことができました。
合計2年半休んでいたという本間さん。ヨガをしたりセラピーに行ったり、マッサージに行ったりと自分と向き合い、心を癒すためにできることは積極的に行った。その間の生活は、傷病手当が1年半、失業保険が病気退職として300日分出たため、そのお金で生活を支えることができたという。
休養中の2年半の間で、自分の人生にいらないかもと思われるものを手放していきました。今まで常識だと思っていたもの、しんどかったもの、全て剥がしていってそれでも残ったのが、菌だったんです。
高校の頃に出会った微生物。酒蔵で働いたことで、人間が菌をコントロールして酒ができているのではなく、自分たちは菌のお世話をして菌に酒を作ってもらうしかないということを知った。自分が失敗を繰り返しても菌はご機嫌で、時に自分を励ましてくれた。菌は本間さんにとって師匠であり、戦友であり、仲間であり、そして自分の一部であるということに気がついたという。
自分の一部「菌」でできること。麹屋として開業する
休養している間も、麹づくりは行っていたという本間さん。そう思うと本間さんにとって麹づくりは、何か毎日行う当たり前の出来事の一つだったのだろう。
麹づくりをしていたら、麹を買いたいという人がいました。誰かの役に立つのはなんだか嬉しくて。あと酒蔵に勤めていた時に、人とコミュニケーションを取ることに対してストレスを感じていたため、会社勤めはしたくないと思っていたこと。そして勤めていた酒蔵には迷惑をかけたくないというのもあったので、自分が一人でも商売になるのは麹かなと思い、麹屋をスタートすることにしました
そんな時に思い出したのが、祖母が亡くなり結婚を機に本間さんが離れたことで、7年間ほど空き家になっていた祖母の家だった。祖母と共に住んだ思い出の場所。そこには麹作りに必要なせいろがあったのだ。
多分祖母がお餅作りで使っていたと思うのですが、おばあちゃんが残してくれたこの道具があったのはとても大きかったです。そしてこの場所でやることは、おばあちゃんへの恩返しにもなると思い、ここで開業することに決めました。
母親や建物の名義だった叔父にも話し、了解を得た本間さんは2021年「おかしなこうじや」をスタートさせることになった。
「おかしなこうじや」の名が如く、さまざまな麹を作る店
2021年6月1日。「おかしなこうじや」は晴れて開業した。と言っても最初の3ヶ月は開業準備をしていて、本格的に開始したのはその年の秋だった。麹は日本で使われる味噌、酒、酢、みりん、醤油などの調味料のほか、漬物にも使われる日本の国菌。米麹が主流だが、本間さんはさまざまな麹を作っていきたいという。
米麹の他にも、麦や蕎麦、オートミールなどさまざまな素材の麹を増やしたいと思っています。丹波豆麹や栗麹もいいですよね…楽しみです
今までになかった麹を作ることで、選択肢を増やしていきたい。そんな意味も込めて、通常丸い形をしている菌を、あえて三角や四角に描き、お店のロゴにしているという。
麹屋として一発頑張るぞ!という感じではなく、今のままいけたらいいなと思います。と言っても、麹でやりたいことはたくさんありますが(笑)。流れに身を任せて、自分たちが生きていける分だけ頑張ろうと思います。子どもたちも麹が大好きで、味見してもらうんですよ。コンセプトは、子どもがそのまま食べておいしいと言ってくれる麹です。
本間さんの麹を使って作られた甘酒を飲ませていただくと、口の中に甘さがふわっと広がりとてもおいしかった。今まで培った経験と、紆余曲折し最終的に見つけたありのままの自分、そしてどんなに苦しい時も支えてくれた家族や丹波市の友人…色々な歴史が積み重なり出来上がった味なのであろう。
周りが自分の麹に期待してくれるので、もうちょっと頑張らなきゃと思います。と笑顔で話してくれた本間さん。丹波市という土地で、さまざまなことがあっても乗り越えてきた本間さんが作る麹はきっと、彼しか作れない味わい深い麹になっていくであろう。
酒蔵にお勤めの時から、編集部もよく知る間柄だった本間さん。休日もイベントで出会ったり、仕事につながる勉強会で出会ったりと、精力的に活動をされていました。真面目すぎる性格からか、一度体調を崩してしまったことも、今の本間さんの笑顔を見ていたら良いタイミングだったんだなと思わされました。本間さんの麹が、これから丹波市の名物になっていくのではないか。そんなことを思わされるインタビューでした。