移住者インタビュー

Vol.90 / 2022.10.19

本場NYのヒップホップを丹波へ!ダンススクールを丹波で開くためUターン

西垣萌さん

2017年から丹波市が実施している「お試しテレワーク」企画で丹波市の関係人口として毎年移住者のインタビューに来てくれる、東京在住のライターFujico氏。コロナ禍で2年の期間が空きましたが、感染状況が落ち着いたタイミングで再び丹波市に来てくれました。
普段、東京に住んでいる彼女の目には、丹波市の人たちの暮らしはどんな風に映るのか。
この記事は、彼女が丹波市での滞在期間中に出会い、交流された方へのインタビューをまとめたものです。
丹波市に興味がある方はもちろんのこと、丹波市に住む方々も楽しく見ていただければと思います。

※この記事は、2022年5月後半に行ったインタビューです。東京から丹波市に来る際にFujico氏には新型コロナウイルス感染の可能性がないかチェック頂き、十分な感染予防実施の上移動とインタビューを行って頂きました。撮影時のみ、マスクを外して頂いている写真もございます。

夢を抱いた少年少女は地元を離れて都会に行き、なかなか故郷に戻ってこない。丹波市だけではなく日本全国で起こっている事柄だ。新型コロナウィルス感染症がきっかけで都会から田舎への移住が注目されるようになったものの、今もなお都会に行ったまま帰らない若者が大半だ。特にやりたいことや夢があると、地元ではできないと思い込んでしまう人も少なくないのではないだろうか。丹波市でダンススクールを立ち上げ、ダンス普及活動に貢献している西垣萌さんは、大阪や東京などでスクールを行う選択肢があったものの、あえて丹波市で開いたという。ヒップホップの本場・ニューヨークでダンスの高い技術を学んだ彼女はなぜ、都会でスクールを開くのではなく丹波市にUターンをしてまでも開くことを決意したのだろうか。やりたいことは地元でも実現できることを証明してくれた西垣さんに、どのように夢を叶えたのかを伺った。

 

ダンスが大好き!高校卒業後ダンススクールに通うため丹波を出る

 

西垣さんと会ったのはダンススタジオではなく、丹波市にあるcafe ma-noだった。週3〜4回はダンスレッスンを行い、その他の時間はcafe ma-noでアルバイトをしているという。通してもらったのは、大きな窓から丹波の町と自然を見渡せる席だった。丹波市出身の西垣さんは、体を動かすことが大好きだったこと、そして目立ちたがり屋だったため、ダンスを幼い頃からやりたいと思っていたそうだ。しかし昔は、丹波市内に自分が望むダンススクールは少なかったという。

 

私が小さい頃はアイドルのようなかわいい踊りを教えてくれるダンススクールはありましたが、ヒップホップを教えてくれる場所はあまりありませんでした。また、小学校の頃は別の習い事で忙しかったこともあり、自分がしたいダンスを学べる環境ではありませんでした

 

 

 

西垣さんが高校生になる頃には、EXILEなどのダンスグループの影響でダンスの人気が高まり、ヒップホップのダンススクールが丹波市にもできていた。満を辞してダンススクールに入ることができた西垣さんは、青春時代をヒップホップに注いだ。ダンスを学んでいく中で、指導者になりたいという気持ちが沸々と湧いてきた西垣さんは高校卒業後、迷いなく大阪にあるダンスの専門学校に通うことにした。

 

スクールで教えてくれる先生たちはパフォーマーでもあり先生でもあり。そんな先生たちをみていたので自分も自然とそっちの道に行きたいと思いました。大阪の学校も自分にダンスを教えてくれた先生が通っていた専門学校を選びました。

こうして丹波市を離れて、西垣さんは大阪にあるダンスの専門学校に2年間通うことになった。

 

 

ダンス留学に向けて資金を稼ぎ、いざニューヨークへ

 

 

人生で初めて丹波市を離れて、西垣さんは三田市で姉と二人暮らしを始めた。丹波市を離れる前は、地元が好きでも嫌いでもなかったという西垣さんだが、大阪に出たことにより丹波市の良さに初めて気づいたという。

 

ダンスをするなら東京か大阪だとずっと思っていたので、帰りたいと思うなんて思ってもみませんでした。

 

例えば街中の匂い。大阪は人が多く匂いが好きじゃないと感じるようになった。体調にも影響が出てきて肌に合わないことが分かり、丹波市がどれほど住みやすいかを感じるようになったという。

 

 

専門学校を卒業した後、すぐにスクールを開くこともできたと思いますが、私は本場のニューヨークでさらにダンスを磨きたいと思っていました。そのため、一旦丹波市に戻ってお金を貯めることにしました。

 

西垣さんは丹波市に戻り、居酒屋でアルバイトをしながらニューヨークに行くための資金を貯め始めた。その間は週に1回程度、知り合い向けにダンスのレッスンも行った。丹波市には壁一面に鏡が貼ってある公共施設がいくつかあって、部屋を安くレンタルできるため、生徒が少なくても始めやすかったという。こうして西垣さんは資金を貯めながら指導者としての経験も少しずつ積み、ダンス留学のためにニューヨークへと向かった。

 

 

ニューヨークから帰国後Uターン。ダンススクールを開始するも人が集まらず苦戦

 

 

ニューヨークでは朝に語学学校で勉強、午後にスタジオでダンスのレッスンを受けた。有名なダンススタジオにはさまざまな国のプロを目指すダンサーが集まり、刺激が多かったという。

 

日本のダンススタジオでは、ステップや技をきっちりと教えられます。この技ができればうまい人と思われるような環境なので、一つのジャンルを追求していく感じがありました。ニューヨークでは、とにかく楽しみながらフィーリングで踊ります。ヒップホップのレッスンを受けてるのに全く違うことをやることもあります。そのおかげで、表現方法が豊かになりましたね。

 

ニューヨーク仕込みのヒップホップを体に染み込ませて帰国した西垣さんは、当時21歳。大阪でスクールを開こうかと思っていたが、悩んだ結果丹波市でスクールを開くことに決めた。

 

 

ニューヨークに行く前に丹波市でレッスンを受けてくれた人が、継続して習いたいと言ってくれたこと。また、既に大阪には先生がいっぱいいるので競争率が高いこともあったので、丹波市でスクールを開こうと思いました。また、どこで始めたとしても最初は生活を支えるほど生徒がいません。丹波市ではお手頃価格で施設を借りられるため、好条件だと感じました。

 

ニューヨークに行く前から続けていたSNSで発信をするなど、コツコツと宣伝は行っていた西垣さん。スクールを始めてからも発信や宣伝を続けたが、なかなか人が集まらなかったという。

 

1年半くらいは集客にずっと苦戦していました。週に1回の1時間、1クラスのみをずっと続けていました。これだけでは生活していけないので、居酒屋でアルバイトを行い生計を立ててましたが、運よくダンスブームが始まったんです。

 

 

SNS発信とダンスブームが重なり集客に繋がる

 

ダンススクールの生徒がなかなか集まらない中、2012年に公立の学校でダンスが必須項目になった。それをきっかけにダンスが子どもにとって身近な存在になり、習い事にする人が増えていったという。

 

ダンスブームが起こり始めた時にはすでに、SNSでスクールの様子をアップしていたので、生徒が徐々に集まり始めました。週に1クラスだったのが最大9クラスまで増え、丹波市内だけではなく、舞鶴市、さらに福井県の小学校にダンスを教えにいくなど、遠方でもレッスンをさせてもらえるようになりました。

 

 

西垣さんのクラスに生徒が集まってきたのと同じように、丹波市でもヒップホップがどんどんと広がっていった。西垣さんがダンスを始めた頃は発表会を行うにも踊る人が集まらず、当時通っていたスクールの先輩や先生と一緒にショッピングモールの駐車場を借りて行っていた。しかし今では市内のダンススクールが集まり、ホールを借りて発表会を行えるレベルにまで成長した。

 

丹波市内にあるダンススクールの先生同士は繋がりがとても強く、皆さんとても熱心です。普段は個別にスクールを運営していますが、発表会やイベントを行う時は一致団結します。

 

今ではインスタグラムなどのSNSで集客が十分にできているという西垣さんは、クラスも増えてダンス一本だけで生計が成り立つようになった。しかしそれでもあえて、二足の草鞋を履き続けているそうだ。

 

 

二足の草鞋で自分らしい生活を。カフェでのアルバイトで新しい刺激も受ける

 

 

居酒屋でのアルバイトは辞めて、3〜4年前から丹波市で人気のカフェ cafe ma-noでアルバイトを行っているという西垣さん。なぜ今もなおアルバイトを続けているのか尋ねたところ、ダンスに対して、そしてスクールに対して真剣な思いがそこにあるからこそ二足の草鞋を履き続けていると教えてくれた。

 

スクールを始めた頃はダンスだけでやっていこうと思っていましたが、ダンスだけやっているのでは視野がどんどん狭くなるのではと思ったんです。自分の性格的にも一つのことだけをやっているとしんどくなると思ったので、ダブルワークは続けることにしました。

 

 

 

最大9レッスンを受け持っていた頃は、発表会が重なると作品作りが大変でバランスを取りづらくなったという西垣さん。一つ一つのクラスのクオリティを上げるために、2022年はあえて6クラスに減らした。

 

cafe ma-noは以前からよくイベントを企画して人を集めていました。他事業者とコラボしたり、丹波市外で活動されている方とイベントをしたりしていて、私もダンスのイベントを企画しているので勉強になると思ったんです。また、個人事業主だったり会社を経営しているような人がお客様としてよくいらっしゃるので、お話を聞いてインスパイアを受けることもあります。

 

 

 

カウンターに座った客と話していてダンスのスクールを運営していることを話すと、イベントに誘われたり、子どもを習わせたいと言ってもらえたり。cafe ma-noで働くことは、ダンススクールにも良い影響を与えていたのだ。

 

 

良くも悪くもコミュニティの濃さが味。出たから気づいた丹波市の良さ

 

 

最初は大阪でスクールを開くことを考えていた西垣さんも、丹波市でスクールを開始して早9年。今思えば、丹波市で開いて良かったという。

 

ダンスの技術をブラッシュアップするために、今でも大阪のレッスンに通うこともあるのですが、都会のダンススクールではコミュニティが生まれにくいんです。丹波市は人と人との距離が近いので、生徒さんや親御さんとダンス以外の話もします。私は人と関わるのが好きなので、そんな距離感がとても心地いいです。

 

現在西垣さんが受け持っている生徒は、4歳から50代と幅広い。ダンスは年齢関係なく楽しむことができ、人間性にも良い影響を与えることができると西垣さんは考える。例えば前に立つのが苦手だった子も、ダンスを習い始めたことで堂々と踊れるようになったり、ステージで一人で踊れるようになったりするそうだ。そんなダンスを広めることで、何かに対して前向きに発信できる子が増えたら嬉しいと語ってくれた。

 

 

今後は丹波市でスクールを運営していくと同時に、自分自身もパフォーマーとしてダンスは続けていきたいと思います。私自身、ダンスがきっかけで地元の良さを知ることができ、スクールを開くという夢も叶えることができました。何かにチャレンジしてる人が多い環境なので、丹波市で何かしたいことがある人は是非やってみたらいいんじゃないかなと思います。

 

今後は生徒が積極的にコンテストとかダンスバトルに参加できる機会を作りたいという西垣さん。丹波市のダンスやチャレンジできるコミュニティに魅了され、移住する人が増えるのも遠い未来ではないかもしれない。

編集部もよくcafe ma-noでお会いしていた西垣さん。ダンスに関することや事業に関することを聞かせて貰ったのは初めてでした。丹波市から出て進学、NYまで単身学びに行かれた姿勢は本当に凄いなと思わされました。好きなことを突き詰めて仕事にしている所もそうですが、ダブルワークをうまく活かしながら日々を楽しんでおられる姿は多くの方のお手本になるのではないかと思いました。「好きなことを仕事にする」ことと「自分にとって暮らしやすい地元に帰る」を両立している素敵なお話でした。