プロ声楽家から伝統工芸作家へ。事業継承のため丹波市で二拠点生活
小島紗和子さん
伝統工芸の後継者不足はどこも深刻な問題になっている。後継者が見つからないだけではない。材料が手に入りにくくなったり、加工をする事業者がなくなってしまったりと様々な理由が重なり、次世代へと繋げることが困難になっているのだ。そんな中、日本で1300年ほどの歴史を持つ伝統工芸・螺鈿(らでん)を受け継いだ女性が、丹波市で二拠点生活を送っている。螺鈿作家の小島紗和子さんだ。プロの声楽家としての活動をしながら伝統工芸である螺鈿細工を始めて、丹波市と伊丹市を行き来しながら作品作りに励んでいる。流れに身を任せたら今いる場所に辿り着き、だからこそ無理なく事業も生活も続けられているという紗和子さんは、どのようにして声楽家から伝統工芸作家の道にたどり着き、丹波市で二拠点生活を送る流れになったのか。「移住」に重みを感じず自分の理想の生活スタイルで、自分が好きなことを行うという形を紗和子さんは実現している。
声楽のプロとして活動しながら、将来を模索
丹波市の住宅地と言える家が多いエリアに螺鈿作家・小島紗和子さんのアトリエがあった。シンプルな外観の建物は、一見、工房とは気づきにくい見た目だった。「こちらへどうぞ」と紗和子さんがその”展示室“に通してくれた。部屋に入るとそこはまるで別世界。木の温もりが感じられる部屋に、漆の器や螺鈿細工の作品の数々が並んでいた。ゆったり穏やかな話し方の紗和子さんと木で作られた空間がとても合っていて、緩やかな時が流れている気がした。
私は兵庫県伊丹市出身で、伊丹市で育ちました。父がもともと螺鈿作家で、その影響で螺鈿細工を始めましたが、並行して音楽もやっていたんです。
紗和子さんの半生は実にユニークだった。伊丹市で生まれ育った紗和子さんは、お姉さんと二人暮らしだったという。というのも螺鈿作家であった父・小島雄四郎さんは、作品作りのために丹波市に移住。母も父の作品作りを手伝うために丹波市と伊丹市を行き来していたというのだ。そんな紗和子さんは音楽が大好きで、大学の音楽学科に入学。西洋声楽を学んだ。
大学を卒業して、結婚式で歌ったり舞台に出たりしていました。フリーのアーティストとして活動していく中で、私の歌を聞いてくださった方が出資をしてくださり、ニューヨークに勉強しに行けることになったんです。
こうして26歳で渡米した紗和子さん。ニューヨークでは個人の先生や声楽のワークショップに参加し技術を磨いていった。音楽の道に進みたいと思い邁進してきた紗和子さんだったが、ある出会いがきっかけとなり一度立ち止まったという。
ニューヨークには、楽譜など音楽に関するものが借りられる音楽図書館があります。そこに、ずっと憧れていた歌手の方が偶然現れたので話しかけてみたんです。音楽の話をしているととてもキラキラと楽しそうで。その方を見て、私にとって音楽はここまでのものなのかと悩み始めました。
紗和子さんが歌っていたのは西洋の音楽であるため、西洋の人には勝てないのではないかと感じることもあったという。自分の強みになるものとは、と考えた時にふと思い出したのが、父がやっていた螺鈿細工だった。
子どもの頃から離れ離れに暮らす父が行う螺鈿工芸
紗和子さんにとって螺鈿細工は、小さい頃からある当たり前のものだった。
生まれた頃からそこら中に螺鈿細工の作品がごろごろとあったので、美しいとか美しくないとかそういう感覚はありませんでした。美しくないと思っているわけではなく、生活に溶け込んでいたものだったんです。
父・雄四郎さんは新潟県出身で高校を卒業した後すぐに銀行に勤めた。その時、茶道を始めた雄四郎さんは道具をみて感銘を受けたという。銀行を退職した雄四郎さんは、24歳の時に漆の世界に入った。そこから木漆工芸で人間国宝に選ばれた黒田辰秋さんに何度も手紙を出し、弟子入りを志願した。何度か断られたものの雄四郎さんの熱意や、ちょうど人手が足りなかったというタイミングも合わさり、弟子にしてもらうことができたという。雄四郎さんは師匠がいる京都へと移住し、螺鈿細工を学んだ。
父が独り立ちした後は伊丹市で作品を作っていました。漆を乾燥させるには湿気が必要で、当時田んぼがたくさんあった伊丹市は作品作りに適していましたが、私が小学校に上がる頃には多くの田んぼが家に変わってしまいました。そこで父は知り合いのツテで丹波市を知り、丹波市へ移住したんです。
そんな雄四郎さんの存在を思い出した紗和子さんはニューヨークから帰国した後に、螺鈿細工をやってみたいと父親に相談した。
正直、そこまで強い意志があったわけではありません。ちょっとやってみようかなというくらいの気持ちでした。でも父もみんなも予想以上に喜んでくれて。やった〜!紗和子がやるって〜、って言って。その時、父も弟子がいなくて大変そうでもあったので、ちょうどタイミングも良かったのかもしれません。
小さい頃から見てきた螺鈿細工だが、実際に作品を作ってみるのは初めてだった紗和子さん。しかしいざ紗和子さんが作品を作ってみると、不思議なことに「できるな」と感じたという。
螺鈿工芸を自分に”取り入れて”、丹波市の二拠点生活を始める
2008年、紗和子さんは27歳だった。想像以上に作ることができた螺鈿細工をより本格的に行うために、伊丹市と丹波市の二拠点生活を始めた。
まだ音楽の仕事もやっていたので、螺鈿細工の仕事と並行して行いました。いずれか自然とどっちかに決まっていくんだろうなと思っていたので、自然に身を任せてましたね。
丹波市にて螺鈿細工作家として活動を始めた紗和子さん。雄四郎さんに教わった記憶はほとんどなく、やり方を知っていた、に近かったという。むしろ、自分にフィットするものとやっと出会えた感覚だったとか。
歌はもちろん楽しかったですし大好きでしたが、自分とは切り離された特別な存在でした。螺鈿細工作家としての仕事は自分の一部のような感じです。
2008年、母の美代子さんとともに「螺鈿をもっと身近に」をモットーとした個人工房「chogoro」を立ち上げた紗和子さん。螺鈿細工は特別な存在としてではなく生活の一部だった紗和子さん自身のように、人生をより豊かにする物として螺鈿を届けたいという気持ちで、chogoroを始めたという。
音楽の仕事と並行して、二拠点生活をしながら作品を作るという生活を10年以上続けました。疲れる時はありますが、嫌になることは一切なくて。むしろ漆や螺鈿と出会ったことで自分の生活がどんどんと丁寧になっていくんです。やりたいことをやっているだけなんですけどね。
螺鈿作家としての活動が、ゆっくりと、ただ確実に紗和子さんの生活や紗和子さん自身を変えていった。
器に合う食を探したら、自然と手づくりに行き着く
器に出会ったことで生きるということについて改めて考え直し、丁寧な暮らしになってきている紗和子さん。器に合う食事はなんだろう、と考えた結果、自分でパンを焼いたり、自分の家で作った山椒やハーブを入れたウィンナーを作ったりと、手作りしてみては器にどう乗せるか考えているそうだ。
丹波市に通い始める前は適当な生活をしていたと思います。ご飯にもこだわりがなく、生活自体を大切にしていなかったかもしれません。丹波市では母が趣味で畑をしていたので、取れたての野菜を食べられたり、四季の移り変わりを感じたり…そこから自分自身で色々作り始めました。ただただ、楽しいですね。
丁寧な暮らしは作品の見せ方にも影響している。レストランと協力して、器に料理を盛って食事を楽しんでもらう展示会を行い、器の使い方の提案を一緒に行っているという。食事の提供ができない場所ではお茶とともに器を出すなど、器は飾る用途だけではなく日常に取り組むものだということを提案し続けている。
父が亡くなったのは2020年。そこからこの事業を私が継いでやっています。もともと父が作っていなかったアクセサリーづくりなどを中心に行っていましたが、父が亡くなってからは食器作りも始めました。自分で作ってみたことで、よりこの作品を生活に取り入れてもらいたいという気持ちが強くなりました。
できあがった時が一番美しく、汚れて捨てられていく現代の既製品とは違い、螺鈿工芸は経年変化によりさらに良さが増すそうだ。そのため、どのように普段の食事に器を取り入れるかがとても大事だという。百貨店やギャラリーなどでの展示会も京都府から宮城県と各地で行われ、その思いを示せる場になればという思いで紗和子さんは行っている。
螺鈿作家になり、その流れで丹波市で二拠点生活をし…流れに身を任せたらこの生活が待っていました。もしかしたらここも最終地点ではないかもしれませんが、その時やりたいことを一所懸命やることで、色々な事が自ずと見えてくると思っています。
思えば気の合う人ばかり。丹波市で気づいた居心地の良さ
生まれながらにしてアーティストのような紗和子さん。実は周りの人で会社勤めの人はおらず、ものづくりをする人が多かったそうだ。父は螺鈿作家、母はその手伝い、兄は椅子を作る木工作家…親戚も会社勤めの人はほとんどいない。そんな中で生まれ育っているからか、小学校の頃は生活スタイルの違いからか友達との会話に違和感があったという。
子どもの頃ってものづくりをしてる親を持つ人ってあまりいなくて、違和感や居づらさを感じていました。しかし丹波市に来てからは自分で何かを作ったり発信している人が多くて、とても居やすい環境なんです。
作品作りに集中したい父と居たこともあってか、丹波市に来てもそこまでコミュニティに入ることはなかったが、仲が良い人が一人二人と増えていくことで、どんどんと丹波市に住む人と繋がり始めた。
何かやりたいと思って移住してきた人も多くて、良い刺激になります。話も合うのでストレスを感じにくく、丹波市に通い始めてから心も体も健康的になりました。
「家は古いので直すところも多いしネズミも出ますが、それ以外悪いところはありません」と笑いながら話してくれた紗和子さん。決して移住をしたくて来た訳ではなく、親がそこに居たから、親が偶然螺鈿作家だったから、偶然たどり着いた場所と職業だったのかもしれない。しかし結果、それが居場所となり、そして紗和子さんの一部となり、彼女の人生がどんどんと豊かになっているのではないかと感じた。
伝統工芸の継承が難しい時代。きっと見える未来を信じて進む
今後は丹波市に完全移住するのか尋ねたところ、「流れに身を任せてみる」とのことだった。いずれ一本化になるかもしれないし、ならないかもしれない。今は、展示会が大阪や京都などで行われるので伊丹市の家も残しているが、今後はどうなるかわからないという。
ありがたいことにこんな情勢ですが、展示会にも多くの人が足を運んでくれています。去年の展示会では、父が亡くなったこともあり海外のお客様が多くの作品を購入してくださいました。私自身、海外でも販売できないかなと考えています
日本だけではなく世界から注目されている螺鈿細工。しかしこの工芸を続けることは容易いことではない。貝を取る人もそれを加工する人も会社も少なくなり、材料を手に入れること自体が困難だ。メキシコ、オーストラリア、台湾や沖縄などあらゆる場所から材料がある時に買い込み、作品を作っているという。
技術の継承だけが伝統工芸ではありません。むしろ一つとして同じものは作れないため、継ぐというよりは好きなものをひたすら続けているという感覚です。材料費も高騰しており、販売もしていかなきゃいけないので大変ではありますが、それでも気負わず続けられているのは、螺鈿細工が私の一部だからだと思います。
1300年ほど前に日本に来た螺鈿細工は、螺鈿細工を愛した雄四郎さんから紗和子さんへと時代を紡いで受け継がれている。きっとそれは無理やり繋いだわけではなく、自然と生活に取り入れて、自然と愛せる存在であったからこそ繋がった伝統工芸なのであろう。今後もこの美しい伝統工芸が、丹波市から日本中へ、そして世界中へと広がり、人々の生活をより豊かにしていくに違いない。
初めてお会いさせて頂いた小島さん。こんなに凄い作家さんが丹波市にいたのか!と驚かされました。螺鈿で繊細に丁寧に制作された品々は、本当に美しく、日常生活でこういうものがあると、日々の満足度が上がるだろうなと思わされるものでした。同じように、ご自身の暮らしを丁寧に形作ることもされている小島さん。作家として活躍していかれることが確信できるインタビューで、今後がとても楽しみな気持ちになりました。