移住者インタビュー

Vol.96 / 2023.08.24

京都市から孫ターン。当たり前じゃなかったものを当たり前に

髙山 千嵯さん

こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。

ここ数年、コロナ禍を機に移住を決断される方々が増えてきています。今回お話を伺った髙山千嵯さんは、京都の実家から通える先で働いていましたが、母方のおじいさんが住んでいる丹波市へ移住(いわゆる孫ターン)してこられました。かつての思い出、様々な転機の中で、どういった考えのもと決断されたのか、インタビューしてきました。

「自分にとっての当たり前ってなんやろう?」~コロナ禍が生んだ葛藤ときっかけ~

 

髙山さんは今おいくつですか?

 

いま27歳です。生まれてから3歳くらいまでは福知山市で暮らして、幼稚園の間に京都市伏見区に引っ越して、そこから小学校に上がるタイミングで京都市北区へ引っ越してからはそのまま、丹波市へ来るまでずっと住んでました。

父親は実家が京都市で、母の実家が丹波市の今の家だったんです。両親は今も京都市北区の家にいます。

 

丹波市に来るまではずっと京都だったんですか?

 

そうですね、色々重なった結果ですけど全部歩ける範疇のところで(笑)

大学は京都の大学だったんですが、普通は大阪とかに出る人も多いんですけど、立地が有難いことに高校よりもむしろ大学の方が手前にあるくらいで。

なのでほんとにずっと徒歩圏内で暮らしてました。

就活はされたんですか?

 

最初4年間は本社が滋賀県にある書店で働いてました。

社会人一年目だけは滋賀県に住んでたんですが、宇治の店舗に転勤になったのでそれからは実家に帰ってきて働いてました。

 

書店を選んだ理由はなんだったんでしょう?

 

本が好きやったっていうのと、音楽や映像とかも扱ってたりしていて、そういうのが全般的に好きやったんです。

本以外にも色々扱ってるお店だったからいいなと思って、就職を決めました。

業界的にはコロナ禍で漫画とかに脚光を浴びてた中で、多分この波が引いたらこれ以上あがることってないんじゃないかなとか、その先を色々考えると見えなくて。

ただ、仕事や本が嫌いになった訳ではなくて、それよりも丹波市に行きたいっていう気持ちが大きくなったんですよね。

丹波市に行きたいと思ったのはいつからなんですか?

 

2021年の夏くらいからやんわりとですね。自分のキャリアを考えた時に、今の仕事でそれなりの責任ある立場につくことになったら、その時は仕事を優先してしまってもう行けなくなるだろうなと思って。

そこで母に『いずれ丹波の家に行きたい』と話をしつつ。秋口くらいに両親に話して。二人とも『えっ』って感じやったんですけど、『まあ最終はおじいちゃんがいいかどうかやから』って話になって。

それで祖父に聞いてみたら『いいよ』って言われたから、『じゃあ会社辞めるわ』と。

でも、それからなかなか会社に言い出しにくくて、うだうだしてたら冬になって。そこで辞めますって言いました。

その時にいた店舗がちょうど年明けに改装があって忙しくなることもあったので、冬は丹波市に行っても畑もできないから、春を目途に退職することになり、2022年4月に丹波市に引っ越してきました。

丹波市に来ようと思ったきっかけは、時期的にもコロナ禍ですか?

 

そうです。“当たり前だったものが当たり前じゃなくなったのを目の当たりにした”ってところですね。

みんな同じようにそんな感じのものがあったと思うんですけど。

「自分にとっての当たり前ってなんやろう?」って考えた時に、祖父の作った米とか野菜を、何も考えずにもらってたものが急に、「これって、当たり前じゃないんやな」って思ったり。

親戚全員都市部で暮らしてたらそういう環境にもなれないし。

 

「当たり前」が実は「有難い」ものだったと。

 

こういうのが当たり前やけど当たり前じゃない部分なんやなって思った時に「もったいないな」と思ったのと、京都に住みながらどこかの農地を借りて畑してってできたかもしれないけど、別に丹波市にあるし、あるんやったらいけばいいんちゃうかなと。

それで、先ほどの話のタイミングで、じゃあ行こうみたいな感じになりましたね。

コロナ禍は色々考える事ありましたよね。

 

「食べるって大事やな」とコロナ禍で感じたのと、「お金で買わなくても自分でつくれるもの」みたいな感覚を、自分の中に持ちたいと思ったんですよ。

もちろん今は種とか買ってますけど、いずれは種も。

一番身近に感じたものを、お金払って「はい、終了」ってしない生活を出来るだけ送りたいと。

 

丹波市での思い出と、これからの目標

髙山さんは小さい時から丹波市の家には遊びに来てたんですか?

 

遊びに来てましたね。小学校くらいまでの間は連休全てここに来てましたし、妹が母のお腹にいる時には1~2ヶ月里帰り出産でこっちにいて、今はなくなっちゃいましたけど昔あった神楽保育園に通ったりしてて。

ずっと何かしらで生活の一部に縁が入り込んでた場所ではあるんです。

丹波市はいい思い出だったんですね。

 

そうですね、いい思い出で悪い印象がなかったです。

丹波市が田舎だというのはわかってたし、発展してなかった頃もやんわり覚えている中で、今の発展具合を見た時に『あんだけ発展してんから十分暮らしていけるやん』っていう感覚が、遊びにきてる間にありました。

田舎やけどとんでもない田舎でもなく、生活圏内で買い物に行ける場所があって、ちょっと離れるとしっかりした田舎があるっていうのが、すごく魅力に見えて、『生活に全然困らへんやん』ってストンと落ちたものがあったというか。

 

20年前となると、まだ丹波市に合併してない頃ですよね。

 

そうですね。物心ついた頃にはすでにゆめタウンは存在してたんですけど、遊びにいくといえばゆめタウンくらいしかなかったですよね。

その後2005年に氷上ICが出来てからの変わりようがすごかったのを覚えてて。全然違うやんみたいな感じです。

やっぱり田舎といえば虫はつきものですけど、今でもムカデとゴキブリだけはダメですが他は割と耐性があるといいますか。

そこまで虫嫌いでもなかったから、この環境でもやっていける自信はあったんですよね。

 

丹波市に遊びに来てた時、何されてたんですか?

 

よく神楽小学校へ遊びに行ってましたね。夏休みとかは学校がそもそも休みやし、門もなかったから遊びに行けたし(笑)

家の周りをちょこちょこ、何をするでもなく、ぐるぐる散歩してましたね。この家、敷地の中でぐるっと周ることができるんですよ。

家が隣接してないので、ここらへんの家はどこもそうなんかもですが。京都ではそれができなかったんですね。

周回できるだけでも冒険してる感じで楽しかったんですよ。

親の実家に帰るのがめんどくさいという人もいる中で、当時何を楽しみに来られてたんでしょうね?

 

街との環境のギャップが楽しかったんだと思いますね。

もちろん、丹波市以外のどっか遊びに連れてってもらうこともできたんで、それも楽しかったんだと思います。

丹波市に遊びに来るときも携帯のゲーム持ってきて、数日泊まるからその時間の中でゲームとかしてることもありましたよ。

でも、それはそれで、ゲームがあるから家がいいとか、丹波市の家でゲームばっかりしたかった訳でもなく。

 

京都の実家は一軒家ですか?

 

実家は一軒家ですね。もうほんと住宅街の家って感じです。

近くに公園はあったんで、遊びに行けたけど、家の前が急こう配で、家の外で遊べるって感じではなかったんです。

あとは、私が小学校3年生くらいから祖母の体調が悪くて、2年前に亡くなったんですね。

顔を見せにいける間に行かななっていうのもあったり、親から『様子見にいくけどどう?』っていうので『今日は空いてるし行く』とか。

祖母の体調が本格的に悪くなってからの中学・高校の間は泊まらず日帰りで来てました。

日帰りでも来れる距離といえば、それくらいの距離なんですよね。

社会人になってからもちょこちょこ来てましたが、こっちに引っ越してくる前に泊まったのは、祖母が亡くなった時が最後やったんじゃないですかね。

でもやっぱり気分転換というか、こっち来ると環境が違うから、来るだけでも落ち着けてましたね、なんか。

実家ってそういうところありますよね。ところで昔からおじいさんに対する印象はどんな感じだったんでしょう?

 

祖父はですね、昔から元気いっぱいですね(笑)チャキチャキしててほんとに。

私が結構のんびりしてる方やと言われているので、当初母からは『ちゃんとうまい事やってんのか』と心配されてましたけど、良くも悪くも今、88歳になってようやく同じくらいのスピード感で暮らせてます。

祖父が仕事にいってる時の姿も見てましたけど、やっぱり祖母を介護してる時の姿の方が印象は強かったですね。

ほんと10年以上、亡くなる直前まで家で看てはったんで。当初はまだ祖母も歩いてはったんですけど、歩けなくなったのが中学の中頃か高校くらいやって、家の中でも車いすになって。

その頃の姿が一番、記憶があります。

そうなんですね。あと、丹波市にきた当初、仕事探しはどうされたんですか?

 

そもそも、祖父もメインの仕事はトラックとかのドライバー業で、農業は家庭菜園程度だったんで稼ぎ口は別で作らないとなって思ってました。

出来るだけ家から近いところがいいなあと思いながら、「丹波 仕事 求人」とか最初適当にネットで調べた時に、『たんばの仕事』を見つけて。

色々見てたら興味を惹かれた先があって、ハローワークも見てみたら求人が出てたので応募して、受けたら採用してもらえたって感じでした。

そこでの仕事も楽しかったんですが、転勤の可能性が出てきたのと、フルタイムで働いててもう少し農業に使える時間が欲しくなったので退職することになって。

その挨拶にたんば“移充”テラスへ行ったら、ここへこないかと誘っていただき、今に至ります。

ほんと家庭菜園レベルすらできなかったですし、現時点では収益化は全然見えてないレベルなので。今後については様子見ながらですね。

今は田んぼと畑、どれくらいされてるんですか?

 

家の前は2畝程の畑で、田んぼは2.5反ですね。1.5反をお米、1反を豆で使ったりしてます。

収穫に行く頻度が高くないものを離れた方で作ってて、去年くらいから。

自分のできる範囲っていうのもまだ把握できてないので、今後広げるのか否か、これで食べていくのかどうか。

まだ専業も兼業にもなれるイメージはついてないので、しばらくは家庭菜園としてですかね。

自分たちでつくったものが毎日、テーブルにコンスタントに並ぶっていうのが、今追いかけてる一番直近の目標です。

 

『孫の好きなようにさせたったらええわ』~孫ターンを受け止める側の気持ち~

こっち来る前に忍さん(祖父)に相談したという話でしたが、その時率直にどう思われましたか?

 

いやまあ、びっくりやったなあ。この子はもう京都の子やと思ってたから。せやから「まさか」と思って。

まあでも、本人が来たいんやったら来たらいいやんか。こっちは別に止めもせえへんし、拒否もせえへんし。

昔はともかく今や世間一般的には、子どもらが街中に出ていくことを望む親が多い印象ですが。

 

まあ僕らには娘が2人おって、女手でここ継ぐのは難しいやろうから、どこか行きたいところが出てきたら行ったらええわって思ってましたね。

結婚するからよそいくとなっても『好きなとこ行きな』って言ってましたわ。

正直な話、「跡継いだりしてくれるんかな~」と思ったりもしてたけど、最初にこの子のお母さんが結婚して「もうしゃーないなあ」と思って。

その後妹の方も『好きな人ができたさかいに結婚させてくれ』ゆうてきて、『それはどこや』て聞いたら、『西脇の方や』ゆうて。

『ほんなんやったら、しゃーないなあ』ゆうて、今に至ります(笑)

(笑)孫と住むようになったこの1年ちょっと、実際どうですか?うまいこといくか心配でした?

 

うーん、別にそういうことは思わなんだな。好きなようにさせたらええかなと思ってて。僕は僕の好きなようにするし。

僕は百姓するゆうても家だけの百姓やさかいに、色んなものはよう作らんけど、『畑したいんならやったらええで。分からんことがあったらゆうてあげる』って言ってました。

 

一緒に畑に出て行かれるんですか?

 

そうですね。昨日も田んぼ鋤くのにトラクター乗りたいゆうから僕が横乗りして。『真っすぐ鋤くにはこうやるんやぞ』『回る時はこうするんやぞ』っていうようなことを一緒に。

(千嵯)
まだまだ付き添ってもらいながらで。ほんとね、まだそんなレベルなんですよ。横乗ってもらわないと不安なので(笑)

食事は一緒に食べてたりするんですか?

 

昼はお互い仕事があったりするので、朝と夜は基本一緒に食べてますね。夕食は孫が仕事の時はいつも僕が作ってます。

家内が体調悪くなって20年くらいは自分で炊事やっとったから、その辺は何も気にならんさかいな。

ほんで食べ物はなんでも食べるゆうし、僕の田舎料理を喜んで食べてくれるさかいに、仕事でおらん時は作っといたろかおもて。

(千嵯)
ほんと感謝です。でも私も休みの日は出来るだけやるようにしてるんですよ!

お孫さんは自分たちでつくったものが毎日のテーブルにコンスタントに並ぶのが今追いかけてる目標らしいですが。

 

わはは~(笑)
それはなかなか難しいのう(笑)

まあでも、肉なしなら自分ところでまかなえるんちゃうかな。野菜もんはあんまり買わへんでいけると思うけど。

 

ちなみにお肉も?

 

(千嵯)
お肉はちょっとねえ、わからないです。猟は、うん、まずは野菜だけ頑張ろうかな(笑)

お孫さんが帰ってくるって、率直に嬉しいもんですか?

 

そこんとこはどうやろうなあ。嬉しいところもあるし、ちょっと「うーん」、ゆうところもあるわな。

やっぱり年も離れてて、生活様式もちょっと違うさかいな。

これまではたまたま僕も元気やってんけど、今年3月に軽い脳梗塞起こして。

それで障害は残ってへんのやけど、やっぱり体が思うように動かへんことも出てきたさかいに、そんなところでは助かってるところがあるんですけどね。わはは~(笑)

そんなことがあったとは思えないくらいお元気ですよねえ。88歳に見えないですもん。

 

僕は昔からゴルフが好きでな。去年まで年16回程ホール回ってて、スコアも大体80~90くらい。

一番の自慢は、去年バックティーでエージシュートしたこと。

でも、脳梗塞やってから散々やって。もう感覚が鈍くなってもうて、それが悔しくてなあ(笑)

※バックティー:ゴルフコース各ホールの、通常プレイするティーグラウンドよりも後方に設置されていて、上級者やプロが使用する。
※エージシュート:自分自身の年齢以下のスコアで18ホールを回り切ること。

(千嵯)
私はゴルフ詳しくないんですけど、祖父のゴルフ友達がこの辺の近くにもいてはるんで、出会う人みんな大体『ああ、あのゴルフうまい人のとこの孫か!』みたいな感じなんですよ(笑)

(笑)有終の美を飾った訳ですね。これからも健康の為に続けるのもいいんじゃないですか?

 

僕らくらいになれば、ゴルフしに行ってるんやなくて遊びに行ってるからね。練習場でもどこでも知り合いと会って話せて一石二鳥で。

知らん人でも隣り合わせた人と話して仲良くなったらそれで友達増えるさかいな。孫がいてくれるから安心して行けるかな(笑)

 

大体どこも自分の子どもの年代なら村の跡継ぎが、とか考えるでしょうけど、孫の代となればただ可愛いだけの存在になる感じありますよね。

 

まあ僕んとこは男の子がおらんかったさかいに、男の子とおるのはとてもやないけど難しかったんちゃうかなあ。

まあ、とりあえずこの子に関しては僕のできることはするし、好きなようにさせてあげたいなと思いますね。

ほとんどのIターンの人は知らない、かつての丹波市の風景。孫ターンされた髙山さんには今がかつてより「発展して見えた」と言われたことがとても印象的でした。 実は、孫ターンされた方のうち、祖父母がご存命であることは案外希少だったりします。それもあって、お二人の昔話はとても面白く感じられ、ずっと話を聞いていたくなるほど、ほっこりとさせていただいたインタビューでした。