移住者インタビュー

Vol.100 / 2024.02.14

「盆栽を売る」から「盆栽を育てて売る」農家に。大阪から移住したIターンファミリー

宮里凜太郎・こずえさん

こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。

今回お話を伺った宮里ご夫婦は、元々大阪で盆栽屋さんをされていて、『盆栽を育てたい』という思いで丹波市へ移住されました。移住にまつわるエピソードは人によって本当に様々ですが、宮里ご夫婦が選んだ物件は、まさかの一度見送った物件でした。一体、どういう背景で移住することになったのか、詳しくインタビューしてきました。

 

デジタル化されないものづくりの世界を求め、始まった盆栽屋

 

ご主人はどちらの出身ですか?

 

(凜太郎さん)
長崎県出身ですが、父親の都合であちこち転々としてました。沖縄にも住んで、他にも住んで。一人で大阪に出てきたのがきっかけで関西に。写真の専門学校だったんですけど。当時、日本一安かったんですよ、その学校(笑)

 

なるほど(笑)高校は九州だったんですか?

 

(凜太郎さん)
そうです。福岡の高校卒業してから二年間程モラトリアムを過ごして。僕はずっと『芸術をやりたい!』、親はずっと『大学にいけ!』みたいなやり取りが続いて。最後には親が泣く泣く金を貸してくれて、20歳の時に関西来ました。

 

最初写真に興味を持ったきっかけは?

 

(凜太郎さん)
写真は僕の祖父がずっとカメラマンやってた影響ですね。戦争で日本が負けて、祖父はロシアにいたらしくその時片目を失ってたんですね。それで、「片目でもできる職業に」ってことで、日本に帰ってきてからやり始めたのがカメラマンだったそうで。

祖父のことが相当好きでしたので、「俺もかっこいいおじさんになりたいなあ」っていう思いがずっとあって、カメラマンを目指しました。祖父は小指の爪とか伸ばしてて、当時は白黒写真で、ルーペみながらフィルムに墨とかスーっと塗るんですよ、小指の爪で。『鼻ちょっと高くしたったわ』とか、そういうのがなんかかっこよくて。

 

なんとなくわかります。かっこいいですよね、そういう仕草とか。

 

(凜太郎さん)
3年間学校行って、その後1年程スタジオ勤めしてから独立して。28歳くらいまで色んな仕事を受けてフリーランスでしてました。当時、ちょうどデジタル化の波が来た頃で、大枚叩いてフィルムカメラ買ったのに、『データだけくれたらデザイン屋が加工するんで』みたいな状況になってしまったんですね。

 

ありましたね、デジカメにとって替わった瞬間。

 

(凜太郎さん)
それで自分の気持ちもごまかしながらやってたんですけど、最後に結婚式の撮影現場があったんですね。それが政略結婚のような、とりあえず形だけのっていう現場で。レンタルしたデジカメ持っていって。ケーキ入刀とか鉄板のカットでも誰も一切笑ってくれなくて。

そこでデジタル関係なく、もうこれはダメだと。当時僕は心が弱かったのもありますが、それでも幸せそうに撮ってあげるのが仕事なのに、できなかったことがショック過ぎて。以前から人と関わるのが苦手やからカメラ使って紙作って喜んでもらうことをしたかったのに、最後は人を笑わせられなくて泣いて帰るって、もう向いてないって思って。それで「デジタル化されないものづくりの世界に行きたい」って思ったんです。

 

なるほど。その流れで盆栽だった訳ですか。

 

(凜太郎さん)
それから「和風のものなら絶対職業としてなくならないだろう」と思って、金魚屋さんとか鯉屋さん、盆栽屋さん、大工といった和の伝統文化みたいな職業を探し始めて。その時僕は30歳手前だったので、今からでも飛び込んで職業として成り立ちそうなやつで、大阪から通えて弟子になれるところを探していたら、盆栽屋さんが近くで募集してたんで、盆栽屋さんになりました。それが2006年です。

最初独立したけどすぐにはお店できないので、よそで働いたりと数年修行して。その後やっと店構えて開業したのが2012年です。開店前、ビルの屋上で盆栽屋さんされてた方と出会って、土地が無くても全然仕事になるみたいな話を聞いて、「大阪のビルの屋上で成り立つんやったら、長崎帰るよりそっちの方がおもしろそうだな」って思って、屋上付きの賃貸物件探して、やり始めたのが大阪の店でした。

 

よくわかりました。奥さんはどうでしょう?

 

(こずえさん)
私は大阪生まれ大阪育ちで、大阪の高校出て、大阪の大学出て、大阪の会社へ就職しましたっていう生粋の大阪人ですね。丹波市にくるまではずっと同じ通信会社で、法人営業してました。ネットワークやサーバー構築の営業ですね。

 

なるほど。ではお二人は、どういう経緯で出会われたんですか?

 

(こずえさん)
立ち飲み屋で出会いました(笑)

(凜太郎さん)
立ち飲み屋でナンパだったんです(笑)

 

大阪らしいですね、なんか(笑)

 

(こずえさん)
家がめっちゃ近所やったんですよ。

(凜太郎さん)
はじめて行った立ち飲み屋さんで、『一番奥にかわいい子おるなあ』って言ってたら常連さんが呼んでくれて。一緒に飲んだのがきっかけでした。

 

ちなみにご結婚したのはいつですか?

 

(凜太郎さん)
2017年ですね。お付き合いして2年くらいで結婚しました。移住前に一人子どもがいて、移住してからもう一人生まれて、4人家族です。

 

一度見送った物件が、まさかの良物件~環境と状況の変化~

 

丹波市に移住するきっかけは何だったんでしょう?

 

(凜太郎さん)
ビルの屋上って、やってみるとやっぱり狭いんですよ、とにかく。雑居ビルの3・4階を借りたんですが、全部で30坪で、屋上自体10坪しかなくて。盆栽を買ってきたらスタイリングして売るを繰り返して、盆栽を育ててないな、ということに気がついて。

「盆栽育てたいなぁ」と思ったので、土地が十分あって気候もいいところを探し始めたのがきっかけですね。妻の実家が大阪市なんで、関西一円、大阪市にちょこちょこ帰ってこれる、一時間くらいの距離のところで西から東までと、くまなく見て回って。

 

なるほど、盆栽を育てる為に検討されたんですね。

 

(凜太郎さん)
最初は丹波市ではない地域で一軒家を建てようと話が進んでたんですね。工務店にお願いして図面もできて、土地の測量とかも済んで、あとは融資を待つだけだったところで、『土地の価格が見合わない』という話が出て、お金を貸してくれなかったんです。それで絶望しちゃって。

移住しようと決めてから新築の話に落ち着くまでに3・4年かけてたんですよ。中古物件も見たし、色んな地域検討して。新築で一年間計画してきたのに、もうこれ以上は疲れたってなってた時にふと、「丹波市に一件、1000坪くらいの物件あったよなぁ」と、前に一度見送った物件を思い出して、改めて見にいったんです。

以前見に来た時は、よそで新築建てると決めてたから、「はいはいこのパターンね。日本家屋のでかいやつね」となって、「こんなにごつくなくていい」と感じ、「この物件はなし!」となったんです。そして改めて見たら「あれ?ここいいんじゃない?」となって(笑)

 

おお、どんでん返しの予感(笑)

 

(凜太郎さん)
丹波篠山市方面の峠から物件のある集落に来た時、峠から一気に明るく広がる感覚が「なんか気持ちいいね」ってなったのをきっかけにこの物件を見直したら、井戸ある、倉庫ついてる、離れある、母屋はでかすぎるけど、中庭もあるから大切な盆栽置いておけるとなって、「悪いところ一つもないやん」と。

「後は価格やなあ」ってなったけど、新築建てようと思ってた額の半額程度だったんで、これなら即買い可やと。ローンの枠も分かってたので、それからトントン拍子に。ここにしようと決めてから二カ月くらいで。2021年12月に決済して、2022年2月に引越しみたいな流れですね。

 

2カ月で引越しってすごい大変そうですね。

 

(凜太郎さん)
荷物の8割は仕事道具で自分たちのものはそんなになかったのと、盆栽は一切業者に頼めないので、もう引越屋さんに頼まずに3日に1回くらい、ハイエースで洋服とか詰めた段ボールを下に置いて、その上に板置いて盆栽置いて満車にして、往復するっていうのを何十回も繰り返しましたね。

 

ちなみに、移住の動機にコロナって何か影響されました?

 

(こずえさん)
コロナは決め手ではないですけど、きっかけの一つでしたね。盆栽は市場での競りがあってそこへ買いに行くんですけど、コロナで中止とか、県をまたいでの移動が制限されたりもあったじゃないですか。それで行きにくいし買えないしで、「やっぱり生産せなあかんな」と思ったのはありました。

 

こずえさんは移住前からご主人の仕事に関わってたんですか?

 

(こずえさん)
私は丹波市に来てからですね。ずっと会社勤めしながら週末手伝ったりはしてました。その間育休とか産休とかを経て、こっちに来てから正式に以前の会社を辞めました。

こっち来た段階で、主人が盆栽を生産する農家になったんですよ。農家になったら農業に従事せなあかんので、今までの“BONSAI LABO 凜”の事業どうしますかという話になり、私が代表になることになりました。その時に、屋号も“盆栽ラボ丹波”に変えました。

 

盆栽を育てるって、農業なんですね!

 

(凜太郎さん)
香川県とかではキャベツみたいに盆栽が植えられてる畑があったりするんですよ。なので農地を持つにあたり、「農家じゃないと農地が持てないから」が理由で調べ始めたら、ちゃんと農水省のホームページにも盆栽は農業だと書いてたんですね。そこから新規就農を目指し始めて、今年の夏に新規就農できました。

 

(こずえさん)
今後は農地も借りようと思ってて、色々探しているところです。野菜みたいに地植えで盆栽を栽培していけたらいいなって思っています。

 

『なんかええな』~引き寄せられた、地域とのマッチング~

 

こっちでの住み心地はどうですか?

 

(凜太郎さん)
控えめに言って最高ですね。スーパーまで距離があるのでもっと不便するかなと思ってたんですが、子どもが一番近くのこども園に入れず隣の市島地域まで通うことになったことで結局、毎日スーパーに寄れるようになって問題が問題じゃなくなってしまったんです。

大阪に居た時は雑居ビルの3・4階を借りてたんで、子どもを抱っこして買い物袋持って階段のぼっての毎日だったのが、車でどこでもいけるから距離があっても楽なんですよね。雨も気にしないでいいし。

 

(こずえさん)
大阪の時は、移動は基本自転車やったんですよ。自転車で後ろに子ども、前に荷物みたいな。冬の雨とか辛かったですもん。こっちきてから傘いらないじゃないですか。暑い寒いも車の中だとしれてるし。この辺りは雪もそんな大したことないですし。

あと、この地域は日当たりがよくて、出先から帰ってきた時めっちゃ明るいから気持ちいいです。私たちもそのへん知らずに『なんかええな』って引き寄せられてきましたけど。ほんとに言う事ないなって感じです。

 

日当たりがいいのは、盆栽にもよさそうですね。

 

(こずえさん)
そうなんですよ。前の所有者さんが農家さんやったんで、家よりも田んぼに日を当てるみたいな感じだったのかなと思ったり。

 

離れの改装は自分たちでされたんですか?

 

(凜太郎さん)
そうですよ。自分たちで解体してDIYして。まだ途中なんですけど。結構粉まみれで、一年間盆栽せずにこればっかりやってたんで、疲れましたね(笑)

 

地域の方々とのお付き合いはどうですか?

 

(こずえさん)
何か困った事があったら、誰かに聞けばすぐ紹介してくれたり、『わしがやったるわ』と動いてくれて、この辺のネットワークですぐ完結できるのが嬉しいですね。話が早いんで、それが結構私たちに合ってるかなって思いますね。

(凜太郎さん)
「屋根の漆喰がはがれてるなあ」と気づいて、村の人に言ったら次の日見積りに来てもらって、その次の日にはもう修理してもらえるとかがこの辺の普通で。大阪に居た頃は、1週間後に見積り、2週間後に施工、結局一ヶ月かかったとかが日常だったんですごい助かります。

地方はやっぱり人が少なくて、その分だけ人付き合いも疎遠になるんかなと漠然と思ってたんですが、実際は逆で。人は少ないけど、その分皆が関わろうとしてくれるから、以前の感覚からすれば喋る他人が増えたというか。都会よりも心強いし、不安じゃなくなったのが、こっち来てよかったなと思うところです。

 

なるほど。移住前は近所付き合いに少し不安があったんですね。

 

(凜太郎さん)
そうなんです。以前の新築建てようとしてたよその市では、最初村入りに60万かかると言われてたのが、『来年やったら20万かなあ』とかいう話も出たり。『何そのちゃんと決まってない感じ・・・』となって、怖いから調べたりするじゃないですか。

そしたら、地方では村入りしないとゴミ捨てられないとか、あぜ道通ったらあかんとか、雨水すら流させてくれないとか、色々怖いこと書いてあって。村入りはするにしても、自治会活動とかややこしかったらどうしようって不安でしたね。

 

確かに。そういうのがあると不安ですね。

 

(凜太郎さん)
その点、今の地域に移住してきて、ネットに書かれてるようなことは全然なかったので、こういった地域の事情とかもっと発信してあげると、不安がってる人には安心かなと思いますね。変動制とかめっちゃ怖かったもん。金ないぞみたいな。

(こずえさん)
正直、大阪ではこれまで“村”とか“集落”とか“自治会”とかに馴染みがなかったので、かっちりした組織じゃなくふわっと緩い印象だったんですね。でも実際、この地域ではちゃんとした組織になってるじゃないですか。その点、都会から来てもまだステップ的には馴染みやすかったですね。

 

住む人にとって生活が成り立つ地域に

 

これからの展望はどのようにお考えですか?

 

(凜太郎さん)
今はとにかく農地を広げて、盆栽を沢山生産しておきたいですね。盆栽は商品になるまで20年程かかるんですよ。今47歳なので、50歳までにやっておかないと完成が見れないかもっていう瀬戸際なんですね。なので、今はとにかく種をまきたいです。近々ビニールハウスが一棟敷地に立つので、それを皮切りにいっぱい作っていきたいですね。

うまく広がれば雇用とかも考えていきたいなと。この地域に何で恩返しできるかって考えると、結局商売で人を呼んで地域にお金を落とす事が出来ればいいなと思っていて、近所で手が空いてる人や、特別支援学校もあるので軽作業からでも連携していけたら。そうして住んでる地域で商売が成立する人が増えれば、もっと暮らしやすくなっていくんじゃないかなと。

 

なるほど。農業や福祉との連携も素敵ですね。

 

(凜太郎さん)
こっちきたばかりで知り合いが居なかった時、地域でやってる移住者交流会に参加したんですね。その時、『移住したい』って言ってた障がい者の子どもを持つご夫婦に気にいってもらってたんですね。でも結局、丹波市外に移住されたんですよ。後々理由を聞いてみたら、『障がい者には住みにくい』って話でして。

(こずえさん)
障がい者の働く場所とか、そういう拠り所があまりないという話やって。で、それが残念というか引っかかっていて。やっぱり家や住む人だけが集まってもだめで、彼らが通えるような居場所も必要だなと。

そういったことにもフォーカスして。盆栽は長いもので100年以上、何代も続いて育てられるものもあるので、同じように息長く、ライフワークとして続けていきたいなと思ったりしますね。

今回取材中に伺ったエピソード一つ一つ、その時何を思ったか、その時どういう考えで決断に至ったのかを事細かにお話いただいたんですが、その時の心境や葛藤、考え方等、とても共感を覚える内容ばかりで、自分だけでなく他の人もきっと生きていく上での参考になるなと感じました。また、とりわけ印象的だったのが、「一度見送った物件が良物件だった」というお話。立場や環境が変わると、色んなものが違って見えるんだというよく言われるそのフレーズが、実際に起こり得るんだということを教えてもらいました。