静岡の食品会社⇔山梨のブドウ農家⇒丹波市のシェアハウスへIターン
佐々木力哉さん
こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
静岡で工業高校を出て、短大でコンピューターグラフィックスを学び、食品会社でデザインを仕事にされていた佐々木さん。その後「農業をやりたい」という気持ちから山梨でブドウ農家へ転身、数年度、生死に関わる事故に遭われ。
『今の生活が人生のボーナスステージ』と言う佐々木さん。一体どういう経緯で丹波市へ来ることになり、現在住んでいるシェアハウスではどういう生活となっているのか、詳しくインタビューしてきました。
食品会社でのデザイン業から、ブドウ農家へ転身
佐々木さんはどちらの出身ですか?
静岡市の清水区という港町で、ちびまる子ちゃんの舞台になったところですね。3年制の専門学校までは静岡の学校へ行って、その後地元企業に就職して6年半、28歳まで静岡にいました。
専門学校は何の専門だったんですか?
コンピューターグラフィックスですね。CG科というのがあって。当時エイベックス株式会社とかPV全盛期みたいな時代で、「映像ってかっこいいな」という思いがありました。
僕は工業高校を出ていた関係で設計も授業でやってて、ちょうど3Dが世に出てきて。有名なところで言えばファイナルファンタジーの9、10あたりで、一気にグラフィックが綺麗になった時期です。映像とか3Dの方面が面白そうだと思って、はじめはそこですね。
では、新卒の会社はそういう会社だったんですか?
仕事はデザイン関係だったんですが、地元の食品会社でした。全て自社でデザインを起こしている会社で、私はポテチの袋とか、ペットボトルのシュリンク、カレーのレトルトパウチ等プラ素材のパッケージ専門でした。
開発から一緒にデザインを考案しながら、印刷メーカーさんと話を詰めていって、伝えたい内容や素材を決めたり、相談しながら生産現場にサンプルを持っていって実際に賞味期限の印字が打てるか、ラインに流して問題なく生産できるかまで関わっていました。
なるほど。退職された理由は何だったんでしょう?
一社目で働いてた時にワインにはまってたんですね。「農業やりたいな」という気持ちがふつふつとあって。それでたまたま飲み歩いてた時にワインのインポーター(輸入業者)してる人とか、ワインを扱う飲食店の友人ができて、「ブドウ作るの面白いんじゃないか」と思い始めて。
それでパッと28歳の時に会社辞めて、そのまま山梨県へ移住して、ブドウ農家を33歳頃までやってました。ブドウ農家は4年半程だったんですが、それは辞めたというよりも、事故をしてしまって、断念せざるを得なかったんです。
そうなんですね。どんな事故だったんですか?
スピードスプレーヤーっていう農薬を撒く機械がありまして、後ろのプロペラでタンクの水を霧吹きみたいにブドウに付着させていくんですけど、それを動かしている時に坂で止まらなくなってしまって。
「このままだと崖でまずい!もうハンドル切って逃げるしかない!」と思って、ハンドルを切ったらですね、もう記憶がなくて。どうも横転して、挟まれたっぽくて。それで、左の鎖骨と肘、あと左の肋骨が全部と、右の腿を折ってしまって。半年以上入院しました。今も肘は障害が残ってるんですけど、それでブドウ農家は諦めたんです。
痛そう…。やはりブドウの作業するのは難しいと?
事故からリハビリはずっと続けていて、でも最初1年半程は力が戻らなくて、それでブドウ農家は諦めて。そしたら『何もしてないなら、リハビリしながらでもどう?』と元居た会社が拾ってくれたんですよね。今度はデザインというよりは管理職として雇っていただいて、大体3年ぐらいですかね。
今も傷は残ってるんですか?
もちろん。見せられないんですけど、肘とか腿も。全身骨が折れまくってたので、ドクターヘリで運ばれましたね。今も肘の可動範囲が少し狭くて、力も入らないし。リハビリしてある程度戻しましたけど、痛かったですね。
事故を機に、丹波市へ“移住しない”理由がなくなった
丹波市への移住は何がきっかけだったんでしょう?
山梨でブドウ農家をしてる頃、知り合いが居なかったので、色んなイベントに顔を出したりしてたんです。それでたまたま、長野県塩尻市でフェスイベントがあった時に、今丹波市で住んでるシェアハウスのオーナーの横田さんがゲストで来ていたのがきっかけですね。それで『とりあえず一回遊びに行きます』ってことで何度か丹波市に来ていて。
知り合い歴はもう10年程なんですが、以前から『丹波市でブドウやればいいよ』って誘われてたんですよね。でも、『丹波市はあまりブドウに向いてない土地なので無理です』って断り続けてたんです。要は「ブドウじゃなきゃダメ!」と思ってたんですけど、それが事故で終わってしまったので、無理だっていう理由がなくなっちゃったんですね(笑)
ああ、確かに(笑)
『それでしたら、ちょっと試しに行きますわ』って事になり。『畑も空いてるし、家も好きなようにリノベしていいから!』って言ってくれたんで、面白そうだなと思って、2022年9月に移住してきました。
横田さんとは10年来の仲ということで、静岡に戻ってからも移住を誘われてたんですか?
実はですね、たまたま彼、事故の前の日にうちに泊まってたんですよ。次の日東京で用事があるって話で。当時僕の家が駅から徒歩1分のところだったんです。駅といっても無人駅ですけど(笑)
新宿までいける電車があって、朝送り出したんですよね。『僕、農薬撒いてきますわー』『気をつけてー』なんて言って別れたのが最後で、横田さんも僕が完治してから事故の事を知ったらしくて。それで「不思議な縁もあるのかなあ」と思ったのも理由の一つでした。
事故の後も何度か丹波市には遊びに来てたんですか?
山梨から一回静岡に帰って、ちょっと落ち着いてから年末に遊びに来てたんですね、今住んでるシェアハウスに。来た時に「まあ住めるかな」って思って。失礼ながら、当時キレイではなかったので(笑)
整理すればスペースはあるし、まあ「色々もったいないな」と思っていたので、整理しながらカスタマイズしていくのも面白そうだし、『自分は出来ないから好きにやっていいよ!』しかいわないので横田さんは。なので、好きにさせて頂いて。そういう感じですね。
確かに、その頃の様子も知ってますが、相当片付きましたね!
母屋の隣も地元の人が整体院を開いていらっしゃいますし、部屋も縁側とかも全部荷物がいっぱいあって空いてなかったんですけど、「まず縁側から片付けよう」と思って塗り直したりして。
今はもう、あと縁側の一画を残してやるところがないくらいですね。蔵が2つ残っていますが、まだどうするか決めてないそうなので、それ待ちです(笑)
『今の生活が人生のボーナスステージ』~丹波市での暮らし~
移住当初、仕事はどうされる予定だったんですか?
正直、仕事は多少貯蓄があるので、今すぐ働かなければいけないっていう状況ではなく、困ってなかったんですね、それは現在も。なので、とりあえずデザイン関係と、最終的には自分が作った野菜を売るとかすればいいかなと思ってました。
「これがやりたいから丹波市に来た!」っていうのは、なかったんです。
なるほど。ではそういう状況で、最初何から着手したんですか?
畑の開墾ですね。とりあえず、畑が何も植えられないくらい草ボーボーで、雑木林みたいになっていたので。機械もないので、鍬と三角ホーだけで掘り進めていきました。結局、年末くらいまでやってました(笑)
手でよくやりましたね(笑)
年末を越えてきたら、今度は果樹に全然手が入っていないことを知ったので、1月はずっと剪定をして。その間、色んな方を紹介していただいたので、色んな人に出会う時間でもありましたね。
それで3月までは仕事っていう仕事はしてなくて、4月になって「おりき耕作所」っていう屋号で起業しました。
事業内容はどういうのをやることにしたんですか?
当初の考え通り、デザインと野菜販売ですね。デザインには特に「これはできない」とか制限はないので、印刷物もやるし、映像もやる。音声コンテンツもやるしで、「言われればやる」って感じです。
趣味として、普段の畑の様子をずっとyoutubeで配信してるんですけど、それは事故後静岡へ戻った時にGoproカメラを買って頭につけて遊びながら撮るところから始まって。もう約200件程動画上げてきたから、それで独学で動画もできるようになって。そういったのもご要望いただくようになって、仕事になっちゃったって感じです。
開墾した畑に何か野菜は植えたんですか?
いえ、とりあえず開墾したばかりで、この土地の風土とか、皆さんどんなものを育ててるのか、何がいい何が悪いとか知らないので、この一年は「地域を知る」為に様子を見ることにしました。
隣の春日地域でお米作りを手植えでやらせてもらったり、色んな農家さんを紹介してもらって手伝わせてもらったりしつつ、公民館横の畑も借りて少し植えたりしてますが、まだ売る為って感じじゃないです。田植えを手伝ったりすると「お米で支払うわ」ってことでいっぱいお米もらうんで、お米には困ってないですね(笑)
自分で田んぼしなくていいんじゃないかってなりそうですね(笑)
畑の周りをちゃんと草刈りしてたら結構『田んぼやらへんか?』って声をかけられるんですが、今でももう田んぼ5枚くらい話が来てて。やれればやるんですけど、経験も少ないし、機械がある訳でもないので、米作りまでは手が伸ばせないのが実情ですね。機械は仮にもらっても維持が大変ですし。
山梨と丹波市と、比較して印象どうですか?
結局人によるんでしょうけど、僕の場合は山梨の人より丹波市の人の方が人当たりがいい気がします。移住者に慣れてるからなのか分からないんですけど、山梨より入りやすかったですね。
山梨も同じくらいの田舎だったんですか?
田んぼの代わりに桃畑が広がってる感じで、田舎具合は一緒ぐらいですね。どっちも畑してたら近隣の人の視線を感じたりしますが、僕はただ普通にやってるだけ。話しかけてくる人は話しかけるし。僕もその時野菜とか手にしてたら『持っていきます?』とか話しかけちゃうんで、そういうのはいいかもしれないですね。
公民館横の借りた畑も『水は自由に使っていいよ』とか言って、その人の家が引いてる井戸水とか使わせてくれて、有難いですね。「地域の方には住まわせてもらってる」と思っていて。地域のためにできることはやる、そこは最低限やるべきだと思います。
すごい馴染んでらっしゃる印象を受けます。
前職で管理職してた経験も役立ってる気がしますね。15人程見てて、半分パートさんで、半分は25歳以下で。仲違いしたり、若い子は言ってもやらないとかが普通で。
その時に「自分が何を言っても人は変わらないんだろうな」って感じて。変わるのを待っていてもしょうがないので、自分が率先して動くみたいなところがありますね。僕の兄弟構成も、僕が長男で、下二人は妹で、若い子の面倒を見るのも苦手ではないので。
ちなみに、田舎に住むことに抵抗はなかったんですか?
山梨の家は昭和47~48年築のすごい古いところで、まずお湯が出ない、洗濯機が外で、電気設備も古い、お風呂にシャワーがないし、お風呂自体が水を入れてから直接ガスで沸かすタイプで、今の家とは天と地というか、ここは全部あるので。
その生活をずっとしてたし、ブドウ農家の頃は年収も100万前後という感じだったので、それと比較しちゃうと全然苦しくないというか。しかも事故をしてるので、痛いの以外だったら耐えられるというか、「大丈夫、死なない」って。そういった部分は大きいかも知れないです。
確かに。生死に関わる事故でしたもんね。
今は、僕の人生のピークが来ちゃってる感じなんですよね。ボーナスステージ中というか、ラッキーで生きれてる感じで。畑できてるし、古民家住んでるし、好きなことやってるし。それ考えると、今ピークなんですよ。
これまでずっと、自分のやりたいことをやってきたんですけど、それだと色々限界も感じてきてて。なので同じデザイナーさんと交流もったり、知り合いをここに呼んでご飯作ったり、お酒飲んだりしてもてなしたりしてるんですけど、そういうのが楽しいなって感じてます。
なので、今は外に目が向いてきてる感じですね。「もてなしたい欲」がね、結構あるんで(笑)
『必要とされたことに応えていきたい』~今後の展望~
今後の展望を教えてください。
デザインの仕事は今、有難いことにこれまで関わった人から頂けてますので「いけそうだな」という感覚はあります。「おりき耕作所」は、「畑の耕作」と「地域を耕す」という意味をかけてるので、自分の持っている力を、デザインだけじゃなく、肉体労働も含めて、地域の役に立っていきたいという思いがあります。
それで、必要とされるのであればそのまま残っていくでしょうし、自分が合わないかどうかは多分周りが判断してくれることだと思うので、地域に必要とされる人になれたら残る。結果違うことになれば、他の役に立てる場所とか、他の新しい何かを見つけにいくことになるかなと。
「必要とされたことに応えていく」というスタンスなんですね。
そうですね。僕が何かするというよりは、「周りが受け入れてくれるのであればその分動きますよ」って感じですね。今後は果樹の苗も植えたいと思ってまして、果樹栽培はスパンが長く、一回決めたら最低でも5年はその場に居る必要があるので、まずはそれくらいを目途に頑張って行きたいなと思っています。
今後もずっとシェアハウスに住み続けていくイメージですか?
うーん、とりあえず今の家はもう改装するところがなくなっちゃうんですよね。キレイにしていくのがモチベーションだったので、それが終わると不安ですよね。やることなくなっちゃうと、居心地はいいけど、抜けられなくなりそうなので、新しい事か住まいか、探してもいいかなと思いますけどね。
今のシェアハウス暮らしって、どんな生活なんですか?
今は僕を含め3人で住んでいて、シェアハウスというよりも、「みんなで住む」集団生活な印象ですね。正直プライバシーもそこまで強固ではないし、僕の部屋も、僕の部屋というよりは作業部屋なので、そういうのが嫌な人は無理かなと思いますね。お風呂もシャワーだけですし、清潔感求める人も。
たまに短期で住むみたいな人もいるんですが、普段全員分のご飯を僕が作っていて、さすがに初見の人に毎日ご飯作るかって言えばそれはもう運営側の課題ですよね。どこまで面倒見るかみたいな。
「もてなしたい欲」も、『もてなせ』ってなれば何か違いますよね。
そうなんですよね。あと、僕が今一番ほしいのは「キレイなキッチン」なんですよ。料理が好きなので。それができれば最高なんですけどね。毎日人が来て、一緒にご飯食べてみたいな。それが一番うれしいかもしれないです。仕事がどうこうとかよりも。
食べ物の事とか、色んな物事において価値観が合う人が沢山来てくれれば有難いなと思いますね。
佐々木さんの移住談を聞いていて、まず思ったのは「日本全国、田舎と呼ばれる地域は沢山あるのに、こんな広域で“適材適所”って起こり得るんだな」ということ。「農業がしたい」という思いに家周辺に空いた農地があり、「古民家を改修したい」という思いに家主が好きにしていいという建物があり、自分自身も工業高校で得た電気工事士の資格を持ち合わせていたり等。たまたまのように見えて、10年来温めてきた交友関係があり。佐々木さん以外の移住者の体験談を聞いていても、案外きっかけは些細な出来事で、案外身近なところに転がっていて、案外すでにある関係性の中から発生するものなのかもしれないなと感じました。