移住者インタビュー

Vol.106 / 2024.07.08

「家業の中で起業する」という新たな選択肢を切り開いてUターン

土田翔大さん

こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。

丹波市で生まれ育ち、実家は三代続くプラスチック製造メーカー。でも、親の子育て方針もあって、家業のことを詳しく知らないまま大学進学、そして社会人に。

『Uターンは、客観的に考えると非合理的な選択だった』と言う土田さん。それがどういう経緯でUターンすることになったのか。詳しくインタビューしてきました。

 

3代続く家業がどこで何をしているか知らないまま社会人に

 

まずはUターンされるまでの経緯を教えてください。

 

1994年生まれで、今年30歳になります。丹波市生まれで、地元の崇広小学校を出て、中高一貫の京都共栄学園に通ってました。その後、大学は大阪市立大学経済学部へ行って、卒業後は食に関する仕事がしたくてクミアイ化学工業という農薬メーカーに就職して、それで丹波市へ帰って来るまでは4年半程鳥取県に行ってました。

ちょうどコロナ禍のタイミングで今後のことを考え始めて、結果的に2021年10月に丹波市へ帰ってきて、父が3代目として経営する株式会社土田化学に入社した、というのがざっくりとした流れになります。

 

ありがとうございます。まず、京都共栄学園は私学ですよね?選んだ理由は何だったんでしょう?

 

小学校4年生頃から、中学受験にも対応している塾へ通ってたんですね。元々、中学受験をする予定で入った訳ではなかったんですが、周りの友人が受験するみたいな話になってて。それで「なんか、人と違う中学いくの楽しそうだな」と思ったんですよ。

それで三田や宝塚の方とか色々見てたんですけど、学力や費用とか色々検討した上で京都共栄学園にしました。部活もできるし、体育祭も文化祭も結構ガチでやるし、かといって勉強が疎かにならないよう設計されてたり、大学進学の実績もあるというところで、選んだ記憶があります。

 

「皆と違う方にいこう」っていう発想は珍しい気がしますね。

 

そうですね。僕が小学校6年生の時、90人程同級生がいる中で、中学受験したのは5,、6人だったかと思うので、少数派ですね。

 

大阪市立大学へ進学された理由は何だったんでしょう?

 

まず、関西圏の大学がよかったんです。阪大や神大は当時の学力的に厳しそうだなと思って、その時候補に挙がっていたのが市大・兵庫県立大・滋賀大あたりでした。それが高校2年生の時に学校行事で、色んな大学の教授が数名来られて、実際の大学の講義に近い話が聞けるという機会があったんです。

市大からは経済学部の教授が来られてて、市大に興味あったので話を聞きに行ったら、その時は「ゲーム理論」のお話で。理屈というよりは、人間の感情が入った上での経済学みたいな話をされてて、「おもしろいな。この先生のゼミ入りたいな」と思って、市大への進学を決めました。それを機に、理系から文系に進路を変えて。

 

ストレートでいけたんですね?

 

そうですね、ギリギリでしたけどね(笑)
センター試験はD判定で、どうするか悩んだ末に受験したんですけど、無事に。

 

ちなみに実家の家業について、どの時期くらいから意識されてましたか?

 

大学進学までは、全くなかったですね。実家に帰ることを考えだした割と最近まで、会社はどこにあるのか、何を作っているのか、従業員が何人いるのかすらはっきり知らなかったです(笑)

父はずっと仕事で忙しくしてたし、小さい頃から相手してくれてたのは母で、母に昔の話を聞くと、「子どもの時から父が社長やってるとかいうと図に乗った子になるのが嫌だな」という思いがあったそうで、ずっと知らされてなかったんですよ。

 

そういう側面もあると言えばあるんでしょうね。

 

小学校2年生の時、一緒に遊んでいた友達から『翔ちゃんのお父ちゃんて社長なんでしょ?』って言われて、『え?そうなん?!』みたいなのが最初でした(笑)

そうやって知ったくらい、ノータッチだったんです。中高進学時も親から「継いでほしい」と言われての選択ではなかったし、大学で経済学部を選択したのは、家業のことはなくはないけど、先生の話が純粋におもしろかったというのが大きかったので、家業には関係なく選択してました。

 

なるほど。では、食に関する仕事を希望されたとのことですが、そのきっかけは何だったんでしょう?

 

一番は、大学在学中ユースホステル部に所属していて、標高3,000mを超える山を6人パーティーで10日間程登山した時がきっかけです。皆で持ち寄った食材を順番に食べていて、最初に大阪の子が持ってきてた米を食べて。その後、自分が持っていってた丹波の米を食べた時に『うまっ!』とびっくりして。

山にずっといるという非日常的な環境だったのもあるし、お菓子等はほぼ食べないので皆味覚が研ぎ澄まされていたのもあるし。そこで「同じ食べ物でも地域差があるんだ」と思ったのと同時に、山を毎日ずっと登っていると自分自身を見つめながら無言で登っている時間が結構多くて。

 

丹波のお米、美味しいですよねえ。比較するとよくわかるというか。

 

その時に、「今日の自分の肉体は、昨日までに食べたもので出来てるんだよな」みたいなことを考え始めて。いつも当たり前に飯食ってたけど、「食べる事=明日を生きる事」に直結するから、「食」というところが欠けてしまうと「生」が成立しない。

父は昔からずっと『人の役に立つ人間になりなさい』と言っていて、それを仕事にするということはなんとなく頭にあったんです。「人の役に立つ=人の命を支える=食を支える、と繋がるよな」というところで、「食を仕事にしよう」と思いましたね。

 

なるほど。では、食に関する仕事は色々あると思うんですが、農薬メーカーに就職したのはどういう理由だったんでしょう?

 

JAや農機具メーカー、肥料メーカーと色々見てたんですけど、まず多少なりとも家業のことが頭の片隅にはあったので、「モノを扱う仕事がしたい」と思って、商社寄りのところは検討から外れて。

「自社製品持っているところ」「新製品の開発が多いところ」を軸に考えていくと、自社で製品を開発してる農薬メーカーにたどり着きました。自分の性分に合ったものも考慮しつつ、会社を選びましたね。

 

ちなみに、全然違う系統の企業に就活はされましたか?

 

「収入がよさそう」みたいな観点でゼネコンとかも見たりしたんですが、根本的には「食に関することがやりたい」と思ってたので、エントリーシートや面接でも気持ちが入らなくて。その点、入社した会社は話したいことも伝えたいこともしっかりあったので、狙った通りにいけましたね。

 

非合理的だが、ロジックを超えたUターンという選択

 

Uターンされることになったきっかけは何だったんしょう?

 

理由はいくつかあります。まず、新製品を出す会社ということで農薬メーカーを選んだんですが、10年程のタイムラグがあるんですね。化合物を研究する為に、仮に2020年に「この菌をやっつけたい」と研究し始めても、出来上がるのが2030年になるみたいな側面があって。農家さんは今困っているのに、薬がすぐ出せないというジレンマがあって。

 

なるほど。逆に今出てくる新製品は10年前に希望されたもの、ということなんですね。

 

メインの製品は農協等に販売してましたが、僕は農家さんとお話することの方が多くて。それで農家さんからは『後継者がいなくて困ってる』とか、『息子が跡継がないって言ってる』とかいう話を聞いてると、「うちもどうなんだろうなあ」と思うようになっていきました。

 

人の話から、自分を振り返ることってありますよね。

 

三つ目に、自分の人生設計の中でも起業といいますか、自分で新しい価値を生み出して、お客さんの困っていることを解決するみたいなことがしたいなと思い始めたんです。

これらを総括すると、「実家は会社をやっている訳だし、その中で何かできるんじゃないか」と思い始めて。その時はコロナ禍だったんで、社長である父に『うちの会社って今どんな感じなん?』みたいな連絡をして。その時初めて、家業がプラスチック製品を作っていることを知りました(笑)

 

そこで?!めっちゃ直近じゃないですか(笑)

 

ここです(笑)
ここでやっと、プラスチック製品を作っていることとか、どこでしているか、過去3年分の決算書を見せてもらったのもこのタイミングでした。コロナがちょっと落ち着いた頃に実家へ一度帰って工場の中を見せてもらって、「何をどう製造しているのか」を知って。

正直、決算書を見た時は決してそこまで明るくなかったと言いますか、今の家業をそのまま続けるだけではきっと、自分の最期までは持たないかもしれないというのはありました。

 

それでも帰る選択肢をとったのはすごい強いなと思いますね。

 

実際、前の会社は家業より規模も相当大きく待遇もよかったため、実家に戻れば給料が下がるのはわかっていたので、「これは、明らかに非合理的な選択をするんだよな」と思ったのと同時に、これはロジックではなく、もう家の血筋なのかなと。

曽祖父が起業して、二代目三代目と続いて、先ほどの通り僕自身は家業の事をつい最近まで詳細を知らなかったとはいえ、会社経営をしている家庭の中で育ってきたので、親の日常会話でそれとなく触れて自分の血肉に刻まれたものがあるという感覚で。

 

それは間違いなくあるでしょうね。両親が同じ職場な訳ですし余計に。

 

あとは「もし自分が戻らなかったら、実家は、家業はどうなるんだろう?」とか、「もしかすると親の代が過ぎるとなくなるかも」って思うと、ここまで自分を支えてくれたものがなくなるのは嫌だなっていう。

なのでそれから1年程かけて父と話をして、僕は『既存の事業だけでなく、新規事業もやっていきたい』という話もして。土田化学の歴史をみても、これまでに色々な変遷があった上での今だから、父も『全然いいよ』と言ってくれたので、帰ってきました。

 

なるほど。ではやはり、血筋でしょうね(笑)

 

家業の状況を知って、最終的に「ここからどうすればもっとよくなるんだろうか?」みたいな思考になっていることに気づいて。ならば、「自分がどうにかすれば、どうにかなるんじゃないの?」って感じです。

傍からみたら理解しにくいでしょうね。帰ってから結婚した妻からも、母からも「何で帰ってきたん?」とか未だに言われますし(笑)

 

実家に戻るといった場合に、給料が下がることに抵抗ある人は多いと思います。

 

うーん、それに関しては僕がただお金に無頓着なだけかも(笑)
「絶対にあれ欲しい!食べたい!着たい!乗りたい!」みたいなことが、全くない訳じゃないけど、なくて。「ある分のお金で生きていくだけ」みたいな。

単純に当時、人生設計が甘かったのもあるでしょうね。結婚するとかも考えてなかったし、自分は結婚できるタイプじゃないと思ってましたし。「給料下がっても別に大丈夫やろ!」みたいな感じです。今は当然、それじゃダメなのでただ頑張るのみです(笑)

 

(笑)では多分、土田さんがUターンされたことは「実家でやろう」という発想がなかったら、実現してないんでしょうね。

 

そうでしょうね。父から「帰ってきてくれ、継いでくれ」という話はなかったでしょうし。父の世代は、親の家業を継ぐのは「当たり前」で、父自身もそう育てられてきたからこそ、僕にはそれを強要するようなことはしたくないと思っていたそうですので。選択肢をくれたことに感謝しています。

 

帰丹後の生活とこれからのこと

 

久しぶりに帰ってきた丹波市はどうでした?

 

以前は鳥取県に居たので、田舎と都会のギャップみたいなものはあまりなかったですね。僕は中高大と市外に通ってましたし、友人は市外に多いんですが、京阪神には1時間半で出れるのでこれといった抵抗もなかったです。

インターネットやSNSを見てますと、新しいお店なんかが結構増えてる印象だったので、「栄えはじめてる」みたいな感覚もありましたね。

 

ご結婚されているとのことですが、奥さんはどうだったんでしょう?

 

妻は神戸出身なんですが、実は妻の父は定年後の7年程前から青垣町に住んでて。お付き合いする前から丹波市にきてたらしく土地勘があったんですよね。なので全然、困ることはなかったです。

 

家業に入社時、どの立ち位置からスタートされたんですか?

 

一般社員からですね。小さい会社ですし、肩書きが欲しい訳でもなかったので何でもいいわと思ってました。でも、従来の事業とは別で新規事業を少しずつやり始めた際に、出会う人と名刺交換する時にはそれがわかる肩書きがある方がいいなと思う場合が出てきたんです。

それで社長に『やるべきことは今まで通りするので、肩書だけ作っていいですか?』と聞いて了承をもらい、それからは「経営企画室室長」と名乗り始めましたね。

 

では、会社の業務もしつつ、新規事業もされてるんですね?

 

そうです。色んな機械があるので、どう使うのか覚えつつ、仕事がどういう流れで行われていて、どこでどんな作業をしているのかといった初歩的なところを教えてもらうところからですね。新規事業は合間を見つつやってる感じです。

 

新規事業ではこれまでどういうことをされてきたんでしょう?

 

家業に戻ってから3日目、製品の品質チェックを行っていた時に少しの傷や汚れがあるパネルを廃棄するのを見て、以前の職場で市場に出せないために廃棄される野菜に近いものがあって、「もったいないな」と感じました。それでやってみたのが「にじいろぶろっくプロジェクト」でした。

Xを使って、「活用のアイデア求む!」と呼びかけたんですね。するとメディアがそれを取り上げてくれて、結果としてこども園の子ども達が遊べるおもちゃとして再利用してもらえることになりました。頭に乗せたり、転がしたり、竹馬みたいに乗ってみたり。嬉しかったですね。

 

素晴らしい取組ですね。

 

あとは、昨年から「OINARI」という、鳥獣対策の設置型デバイスを開発中です。今後の展開を考える上で現状分析したり、前職時代の知り合いや丹波の農家さんと話す中で、全国的に農家さんは鳥獣被害に悩まされているという話を知ったのがきっかけです。

従来の電気柵や監視カメラ等では限界という声を受けて、会社は長時間野外で雨風に晒されても中の機械を守れるプラスチック部品が得意なので、まずは「鳥獣が接近した際にだけ通知する」というシンプルながら効果的な方法を検討しています。

 

それはもう、土田化学の製品として販売していく予定ですか?

 

うちは部品を作るのは得意なんですけど販売というのはやったことがないんですよ。なので、自社で販売するより代理店に依頼する方がいいかもしれませんし、別会社作ってやろうとなるかもしれませんし。どうしていくかは今後検討ですね。

 

今後の展望は?

 

他に考えてるものとしては、「食」以外では実家が持ってる山があって。僕の昔の遊び場なんですが、森のフォトスタジオとして貸し出しができないかを調べているところです。あとは3Dプリンターでの製品作りも。やりたい・やってみたいことは沢山あるので、一つずつですね。

会社に関しては、事業承継はまだ先のことで、僕も四代目候補なんですよね。なのでまずは会社のモノ作りに関わり続けるのが大前提で、「食」に関する新規事業を実現に向けて頑張りたいなと。いずれは僕みたいにモノを作りたいという人たちを受け入れ、後方支援ができる体制が整えていければいいなと思ってます。

丹波市には個人事業主を含めて約3,000社程あるので、「継ぐ・継がない」の選択肢がある地元っ子は決して少なくありません。ただそれでも、インタビューでも話にあがった「全国的な後継者・担い手不足」は丹波市でも同じこと。ご両親の子育て方針の話題に触れ、一度外へ出た子を受け入れる親側の気持ちは、決して土田家だけの特殊な事例ではなく、「今時の親」で「今時の社長」の考えであり悩みなんだろうなと感じました。 個人的には、「いつか親と一緒に仕事してみたいなあ」と思いつつも、それが今生では叶わず仕舞いとなってしまったので、土田親子の姿を見てとても羨ましく思いました。