移住者インタビュー

Vol.108 / 2024.10.02

神戸から丹波市へ。のんびりした田舎暮らしを求めたIターン夫婦

大城重暢・直郁さん

こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。

丹波市に移住される前は神戸に住み、もともと「都会よりは田舎に住みたい」と思っていたところで、丹波市のお隣、多可町の民泊に宿泊されたことをきっかけに「田舎暮らししたい!」と気持ちが固まったという大城ご夫婦。

移住相談窓口を介さずに移住されたという大城ご夫婦は、移住前後でどういう体験があったのか、詳しくインタビューしてきました。

 

出会うまでの、それぞれの暮らし

 

奥さんはどちらのご出身なんですか?

 

(直郁さん)
生まれは神戸市の長田で、育ったのは須磨です。高校までは須磨にいて、高校卒業後は大学には行かず、高校生の時にアルバイトしてたご縁で三宮にある和食屋さんに就職しました。すごい楽しかったので、アルバイトを1年したあと、2年社員してました。

 

その後はどうされてたんですか?

 

(直郁さん)
3年働いて、ちょっと違う景色というか、違う事をやってみたいという思いが芽生えてきまして。休みが少なかったのもあって自分がやりたい趣味とかの時間もなかなか作れなかったんです。

そんな時にちょうど母親の知り合いが小豆島で働いてて、『多分合うと思うから行ってみない?』と紹介されて、小豆島の旅館で仲居をすることになったんです。

 

仲居さんには興味あったんですか?

 

(直郁さん)
そうですね、やっぱりおもてなしをするのが好きで。和食屋さんで働いてた時もお客さんとの会話とか、店主が出す色彩豊かなお料理とか、仕込みするのもすごい好きだったので、仲居さんもおもてなしの仕事やし、学べること絶対あるはずやと思って。

 

なるほど。

 

(直郁さん)
それで小豆島の仲居で1年程働いたんですけど、コロナ禍になってからもう呼ばれなくなってしまったんですね。それで1回実家に帰った時に、介護の仕事をしている母から「介護やってみたら?」と言ってもらって。人対人の仕事ですし、おもてなしに通じるところもあるので学んでみようと思えたので、介護の仕事を始めて。

 

おもてなしが軸なんですね。それはいつから自分の中にあったんでしょう?

 

(直郁さん)
やっぱり最初の和食屋さんですね。店主が和食界で有名ななだ万の料理長だった方で、お料理以外でも如何に四季を演出できるかとか、そういうのにすごい心打たれて。色んな経験をさせてもらったことで、今の私があるという感じですね。

 

多大な影響を受けたんですね。

 

(直郁さん)
昔から自分がこうなりたい、やってみたいとか夢みたいなのは結構いろいろあるんですけど、和食屋さんで働いてた時は豆盆栽にはまってて、週に1回習いにいったりとかしてましたね。

あと、和食屋さんで働いてた時も「着物着たい」っていう気持ちがすごいあったんですけど、着付けを習いに行く時間が取れなくて。仲居さんしてた時も作務衣でしたし、それで介護の仕事を週4日にさせてもらって、自分の好きなことを学ぶ時間として1日使ってみようと思って、それで着付けを習いにいくようになったり。

 

なかなか多趣味ですね。ご主人とはいつ知り合ったんですか?

 

(直郁さん)
ちょうどその介護の仕事をし始めた頃ですね。Instagramを通じて知り合って、その時彼は埼玉に住んでたんですけど、出会ってしばらくして付き合うことになって、それで最初は須磨区の白川台の団地で一緒に住むことになった感じですね。

 

なるほど。ではご主人の話に変わって、ご主人の生まれ育ちはどちらですか?

 

(重暢さん)
僕は沖縄の糸満市で生まれ育って、29歳まではずっと沖縄でした。小学校からギターを始めて、中学校から高校卒業後20歳くらいまではバンド活動をずっとやってたんですが、それからはヒップホップの流れでラップを始めたんですよね。

 

失礼ながら今、ラップしてたイメージはないですね(笑)

 

(重暢さん)
当時は雰囲気が全然違って結構ゴリゴリでしたね(笑)
その後29歳の時に作曲家になる為に上京して、事務所とか探したりオーディション受けたりして、実際それで作曲家になって10年程関東に住んで仕事をしていました。東京7年、埼玉3年という感じで。

 

ヒップホップから作曲家って聞くと何か珍しい流れのような気がしますが。

 

(重暢さん)
沖縄にいた29歳までの間で、自分がステージで歌う側で活動してたりもあったんですが、ヒップホップのトラックやビートを作曲・楽曲提供するという形のこともやっていたので、その流れですね。

 

そういうことなんですね。ちなみに関東にいた時は企業勤めだったんですか?

 

(重暢さん)
どっちも経験しましたね。最初の頃はやっぱり自分の活動だけでは生活できないので、アルバイトとか契約社員とか、色々やってました。

 

その後奥さんと出会われてから須磨に住んでたということですが、移住前までずっとそこに住んでいたんですか?

 

(直郁さん)
いえ、2年程してから垂水区の塩屋に引っ越して、移住前は塩屋からですね。以前から実家で犬を飼っていて、その犬と一緒に暮らしたいなと思って。団地の契約更新時期が来た時に、色々物件を探して見つけたのが塩屋の戸建てだったんです。

 

『田舎に移住したい!』~実体験から得たきっかけ~

 

移住のきっかけはどんな感じだったんでしょう?

 

(直郁さん)
多可町で民泊をされてるご夫婦のところに泊まりにいったのがきっかけですね。囲炉裏のご飯とか五右衛門風呂、薪ストーブとか、自然の綺麗さにも感動して。2人して次の日にはもう田舎に移住したい!と気持ちが固まりましたね。

 

もともと田舎に移住したいという考えはあったんですか?

 

(重暢さん)
沖縄で生まれ育ったこともありますし、関東に住んでた時に人の多さに疲れてしまってたこともあって、都会よりは自然の多い田舎の方がいいなというのはありましたね。

(直郁さん)
私の実家が田んぼとか田舎の風景が残った場所なんですね。両親が古民家買ったっていうのもあって、その古民家での暮らしが私はすごい心地が良かったんですよ。私も将来は田舎で暮らすっていうのは、その時からずっと思ってたことなんです。

 

田舎暮らし先の候補としては兵庫県だったんですか?

 

(直郁さん)
そうですね、実家が須磨にあるのもあって。兵庫県の三田市、三木市、淡路島も見にいきましたし、多可町、西脇市とか、探し始めてから1年間程、あちこち見に行きましたね。

(重暢さん)
最初は古民家を探していて物件ありきだったので、丹波市を目掛けてきた訳ではなかったんですよね。なかなかいい古民家が見つからなくて、一回『ここは何か違うな』と検討から外してた今の物件を、たまたま見に来ることになった時に、一目見て『あ、ここだ!』ってもう、すぐ感じたんですよね。

 

確かにこの家、外観も中も、古民家かと言われればそうではないですよね。

 

(直郁さん)
夫も私もそんなマメじゃないし、手入れとか修繕とかできる人でもないので、改修しないといけない古民家はやっぱり選べなかったんですよね。それでこの物件にたどり着いた時に、『全部出来上がってるからすぐ住めるやん!』ってなって(笑)

 

見つけちゃったんですね。ちなみに物件は何を見て探してたんですか?

 

(直郁さん)
SUUMOです。片っ端から見てましたね。移住相談窓口も特に介さずに来たので、初めはすごく不安だったんですけど、この物件だったら田舎でも暮らせそうだねってなりました。古民家は、ゆくゆくの楽しみにということになりましたけど(笑)

 

この家に住み始めたのはいつ頃からですか?

 

(重暢さん)
結婚した2カ月後のことなので、2023年の11月ですね。

 

丹波市での暮らしの実情

 

実際に丹波市に暮らしてみてどうですか?

 

(重暢さん)
めちゃくちゃいいですね。2人とも気に入ってます。まだ1年も経ってないですが、色んなご縁がどんどん繋がって面白いですね。畑にアルバイトに行ったりとか、ブルーベリーの摘み取りに行ったりとか。

(直郁さん)
今、近くのパン屋さんでアルバイトをさせてもらってるんですが、こっちが仕事を求めてたんですけど、ハローワークとかに行かなくても向こうからふっとご縁が来るっていうのが、すごい不思議だなと思うくらいですね。

 

仕事といえばご主人の音楽の仕事は場所を選ばない感じですか?

 

(重暢さん)
関東にいた頃から基本的にそうです。インターネットがあれば、もうデータのやり取りで。最近はもう会議とかあってもzoomが多いじゃないですか。なので場所は選ばないですね。

(直郁さん)
それがあったから移住できたのもあるので。早いうちにしようってなりましたね。

 

「こういう音楽作って」という依頼があって、作ってあげて納品するといった感じなんですか?

 

(重暢さん)
そのパターンもありますし、自分が作曲してストックしてる曲を気に入った人がそれを買うみたいな事もあります。それは国内だけでなく国外からも。ヒップホップに限らず、テレビCMとかアイドルユニットへの楽曲提供、アニソン等、ひとしきり幅広くやってきましたね。

 

都会だと作曲するのに音出しにくそうだし、環境音がうるさいとかありそうですね。

 

(重暢さん)
そうです。今は音出して迷惑だなんて言われることもないので、集中できますし、やりやすいですね。

(直郁さん)
夫は割と気を使う人なので、以前まで住んでたところではなかなか気持ちよく弾かれへんと言ってましたが、その辺の気疲れみたいなのはなくなってると思います。

 

お二人とも元々、車は運転してたんですか?

 

(重暢さん)
そうですね。僕は免許持って車を運転してるんですけど、妻はペーパードライバーです。

(直郁さん)
普段の移動は原チャです(笑)

 

いいですね(笑)村の付き合いとかどうですか?

 

(重暢さん)
自治会にも参加しました。村の方々が親切で温かく安心して過ごしています。お野菜を頂く機会が多く、本当に感謝しかないですね。

(直郁さん)
移住したときから温かく出迎えてくださり、市島町の魅力を教えてくださったり、私の着付けと中国茶の教室も応援してくださっていて、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

いいですね。日頃の生活で何か困ることはないですか?

 

(重暢さん)
特にないですね。冬が寒いくらいですかね。ちょっと舐めてましたね、丹波の冬を。この家、元が飲食店で、構造が鉄骨だから夏暑いし冬寒いんですよ。灯油を毎週のように買いにいかないといけなかったりというのは少しびっくりでした。

 

追い求めたいのはのんびりとした田舎での暮らし

 

 

今後の展望を教えてください。

 

(直郁さん)
私は中国茶を2年前から習っていて、家で中国茶の教室とあと着付け教室をやってるんですが、お話をしてお茶を楽しむ文化をもっと増やしていけたらいいなと思ってます。

最近はこの家だけではなく、今度市島にあるお寺で茶藝のワークショップをすることになっていたり、宝塚のマルシェに出店させてもらっていたりするんですが、そうやって色んな場所で、色んな人と対面でお茶をほっこり楽しむ時間があちこちでできるっていうような循環をどんどん増やしていきたいなと思ってます。

 

なるほど。ちなみに、日本茶ではなく中国茶をされてるのはどういった背景からですか?

 

(直郁さん)
ずっとお抹茶を習いに行きたかったんですけど、なかなかご縁がなくて。生け花と着物はずっとやってきてるんですけど、たまたま中国茶で使う茶器に出会った時に、その小ささとか可愛らしさに心奪われてしまって。これがいわゆる本場の中国のよく使われる茶器になります。

 

ちっちぇえええ!!

 

(直郁さん)
これが1人か2人分です。で、以前の豆盆栽もそうですけど、小さい世界観のものが好きで。この茶器を使えるようになりたいと調べたら、川西池田の専門店を見つけて、そこで先生が入れてくれたお茶が本当に美味しくて。それでどっぷりはまって今、という感じです。

 

これはなかなか、奥深そうです。

 

(直郁さん)
中国には茶器を養うという考えがあって、養壺(ヤンフウ)と言うんですが、お茶の葉は全部カメリア・シネンシスっていう椿科の木からなっていて、その茶の木の油が茶器に染み込むごとに味わいが増していって、この養壺でしか味わえないお茶が味わえる、っていうその文化にもすごく心を惹かれてしまって。

中国ではお茶が日常と隣り合わせで、一家に必ずセットがあるんですよ。お客さんが来た時に絶対お茶でおもてなしをする、その土地で取れたお水でお茶を入れるとか。そういう文化が素敵だなあと。

私自身のんびりするのが好きだし、お茶を通じてゆっくりするという文化が広がっていけば日常がより豊かになるんじゃないかなと思って。そういった思いでお茶の教室をやってます。

 

なるほど。そのお話と、着物を着てらっしゃることは何か関係するんですか?

 

(直郁さん)
自分なりのお茶を提供したい、という考えですね。日本の茶道は使う器やしつらえが決まってるんですけど、中国は自由なんですね。中国の茶藝をするにあたっては私が日本の民族衣装である着物を着てお茶を入れても全然構わないし、自分の好きなしつらえ、自分の好きな器で入れることができるので。私なりのおもてなしです。

 

そういうことなんですね。

 

(直郁さん)
あとこの家では、家の隣に敷地があるので、そこにちょっとした喫茶スペースを設けたいなと思ってます。中国茶藝とか日本のお茶道、お煎茶道を身近に感じられるお茶屋さんをしたいなと思ってます。

 

わかりました。ご主人はどうですか?

 

(重暢さん)
何よりもまずは妻のサポートですね。僕自身は特にこれがしたい!というのは今のところないので、自分の時間で曲作ったり、のんびりとやっていきたいですね。

曲を作るにしても、こっちの生活は都市部の頃よりはかどる感覚があります。自然も少ないし、何年住んでも人混みが本当に苦手で。今の日々は、周囲が山で自然がいっぱいで。すごいいいところに住んでるよなあって、ふとした時に思いますね。

 

沖縄みたいに海はないですけど(笑)

 

(重暢さん)
そこはそうなんですよ(笑)今後どうなるかまだ何も決まってる訳ではないですけど、憧れの古民家暮らし含め、丹波と沖縄の二拠点居住もありかなっていう話はあったりしますね。

(直郁さん)
そもそも実家も古民家なので、そっちでもゆっくりのんびり暮らせればいいなと思ってるし、ここはここの、もう本当に地域の人のおかげで満喫してるところなので、古民家住まいとかは、ゆくゆくの楽しみでいいかなって今は思っています。

丹波市に移住される方々は、市として長年移住相談窓口を運営しているといっても、全員が窓口に来られている訳ではなかったりします。大城夫婦もその中の一組。日々暮らす中で、移住相談窓口を介さずに移住された方々と出会う機会があったりしますが、共通しておっしゃることは、「インターネットで田舎暮らしのこと、地域との関わりのことを見て、不安があった」というお話。それは全国の地方で、テレビやニュース等のマスメディアで騒がれていたような、ネガティブな話の影響を受けてのことなんですが、実際はうまくいかなかった人もいれば、うまく人もいる。最初、古民家を探していたけど、古民家ではない家に住み始め、古民家はゆくゆくの楽しみという大城夫婦のとられた選択も、多種多様な移住のカタチの一つ。お二人のここまでの歩みは、様々な角度から見ても参考になるお話でした。