東北の地震をきっかけに田舎を求めUターン~原体験の山から駆け巡る~
蘆田恭卓さん
こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
幼稚園の頃から高校まで丹波市で育ち、神戸の看護科学校へ進学、就職、結婚。子どもも二人生まれ、そのまま都市部で家を買おうかと思っていた時に起こった、東北の地震。
「自分でも生活をコントロールできるところに行かないとまずい」田舎暮らしを検討し始めるも、実家に帰るという気持ち自体はあまりなかったという蘆田さん。どういった経緯で丹波市に戻ることになったのか、その後の生活はどうなのか、詳しくインタビューしてきました。
帰丹のきっかけは東北の地震と“田舎暮らしの本”
蘆田さんの出身はどちらだったんですか?
生まれは三田市です。その後宝塚市にいって、丹波市の氷上町いって、幼稚園の時から柏原町と、父親の転勤で1、2年毎に移動してました。その後は順当に崇広小学校、柏原中学校、柏原高校といって。
高校は家の近くにあった柏原高校しか存在を知らなかったし、ずっと「ここに行くもんだ」と思ってましたね。
高校が近いのはいいですね。
高校卒業後は2年間浪人して。医学部志望だったけど受からなかったんですよね。箸にも棒にも掛からんくて(笑)私立なんか絶対無理やし。それで20歳の時に神戸の看護大学に入学して、4年間通いました。妻とはここで出会って、社会人になってから結婚して。
そのまま神戸の病院に看護師として就職したけど、1年で「夜勤が無理や」となって辞めました。優良自然児なんで、体調壊して(笑)次に神戸の兵庫区にあった包括支援センターで保健師として6年ほど働いて。で、ちょうどその頃に東北の地震が起きたんですよね。
震災は2011年3月でしたね。
当時、神戸で家を買おうとしてたんやけど、欲しいと思う家はローンが組めないような物件やったりで、決まらないうちに子どもが 2人生まれて。地震をきっかけに、食べ物に近いところで、「自分でも生活をコントロールできるところに行かないとまずいな」と思いはじめたんですよね。都会はインフラが止まったらもうアウトだから。畑もないし。
わかります。当時同じようなこと思いました。
25歳頃から自転車競技やってて、レースは長野とかの田舎でやるんですけど、そんなこともあって田舎いいなと。空気いいし、水も食べ物も美味いし。その辺の考えが、地震をきっかけに合わさってきたんですよ。
音楽ライブに行った時とか、ミュージシャンとお話してたら『やっぱりこれからは田舎だよ』とか言ってはったくらい。
ミュージシャンも田舎がいいって言ってたんですね(笑)
『都会はもうダメだよ』みたいなね(笑)
それで田舎いこうと思って、最初は「ちょっと大きめの島に行こう」と思ったんですけど、淡路島の保健師は採用落ちたし、なかなか就職先がなくて。別に都会が嫌いだったわけではなかったし、ちょっと難しいかもと思い出した頃に、たまたま本屋で手にとった田舎暮らしの本にこの家が紹介されてて。「この家すごい好きやわ」と思って、「やっぱ移住しよう」と決めました。実家があるとかではなくて、最後は家が決め手。それでこっちに来たのが2012年4月頃。
田舎暮らしの本だったんですねえ。
それまでは移住候補地として丹波市もホームページとか物件見てて、同じ物件が紹介されてたけどあんまり惹かれなかったんですよね。田舎暮らしの本に載ってたアングルに惹かれて。
ちょうどその頃好きだった建築家の建てた家に似てたのと、安いし、ローンなしで買えるなと思って、見学した日に妻と相談して決めました。
出来るだけ実家に寄っておこうという考えはあったんですか?
いやあ、なかったですね。親からは帰ってこいとも言われないし、結構その辺は自由にさせてもらったから。僕は4人兄弟の長男やけど、「4人いたら誰か残るだろう」っていうのもあったし。自由な意思のもと決めました。
結局、こっち来られた時は仕事どうされたんですか?
僕は最初、仕事決まってなかったんですよ。資格あるし、どこか勤められるやろうと思ってたんですけど、一応受けてみた丹波市の保健師に落ちたんです(笑)それで最初は家を住める状態にするために自分で床とか改修してましたね。
ちなみに妻は当時丹波市内にあった日本赤十字病院での勤務でした。元々神戸の日赤で働いてて、日赤は希望したところに異動できる制度があるのでそれで。
家は改修が必要な状態だったんですね。
そのまま住めない事もなかったけど、畳が古くて虫がいそうだったから捨ててしまって、そしたら張らないといけなくなって。
そうこうしてたら、日赤病院が新しい事業するのに保健師を探してたみたいで、「面接受けませんか?」と案内がきたので受けてみたら、採用してもらって日赤に勤めることになりました。『早めに来て』って言われたけど、『家の床がないんですいません』っていって(笑)
ちなみに、自転車に乗り始めたきっかけは何やったんですか?
ダイエット。長男が生まれるあたりで太っていって、健康診断で悪いデータが出始めたからこれはまずいなと。妻から『自転車通勤したら?』って言われて、最初ママチャリを探しに行ったんです。
凝り性なので色々と探しているうちに、クロスバイクとかロードバイクの存在を知って。ショップの走行会に行ってみたら、実業団のオーナーさんから『うちに来ない?』と誘われて自転車競技を知って。おかげでめちゃくちゃ痩せましたよ。10kgぐらい痩せた。
蘆田さんが順調に太っていくっていうイメージは全くわかないですね(笑)
僕も全くなかった(笑)
神戸は美味しいものがいっぱいあるから。週に一回どっかのケーキ食べたりしてたらそれで太っていって。運動するのは楽しかったし、それで運動習慣が身に着いたって感じですね。
全ては小学校の裏山で遊んだ原体験から
10年以上離れてた丹波市に帰ってきた当初はどうでした?
「久しぶりに帰ってきたな~」って感じでしたね。親も車で 15 分ぐらいのところに住んでて、これくらいの距離感で住めるのはいいなと思ったし、当時はまだ自転車をガンガン乗ってたから走るにはいい環境やなって思ったし。
子どもを育てるには学校がちょっと遠いから不便かけるやろなあとは思ったけど自然がいっぱいでいいなあとは思ったし、夜がちゃんと暗くて、「自分が育ったところに戻ってきたんだな」っていう実感がありましたね。
夜が暗い(笑)でも、わかりますねその感覚。たまに街中出て帰ってきたりとかすると。
都会の頃の、物を選ぶ感覚とか、物を見る感覚っていうのは残ってて。そういう感覚でもって田舎をPRしたらもっとこう面白いことできるんじゃないかなとか、そういうのは思っていましたね。
蘆田さんと言えば山登りのイメージがありますけど、山登りは丹波市に帰ってきてから?
都会にいる時は自転車競技一本でしたけど、六甲山が近かったから強くなるために冬のトレーニングで山登りはしてたんですよね。
丹波市に帰ってきた当初は、自転車は子どもたちが起きるまでに帰ってくるっていう朝練な感じでしたね。小さい頃からずっと山で遊んでたんで、その延長って感じで。
延長っていうかどこまでも行っちゃった感じしますけどね。
それでも原体験はやっぱり崇広小学校の裏山でずっと遊んでたことかな。業間休みも、昼休みも、放課後もあそこ。よく行ってた。父親に連れられて丹波の山を登ったりもしました。
丹波市に帰ってきてからしばらくして、ふと「冬の山に泊まってみたい」と思って、とりあえず寝袋とテント買って、いきなりすごい遠いとこ行くと死んじゃう可能性あるからまずは近くからと思って千ヶ峰の辺を大雪の日に登って。それなりに雪が積もってて楽しくて。
千ヶ峰も冬場は普通の人なら簡単に天国からお迎えきそうですけど(笑)
股下まで雪が積もってたから結構大変でしたよ。下山途中になんか神戸から来てる女の人を助けたりしながら。
エピソードがやっぱり普通の人ではないです(笑)
自転車の体力があったから、「体力使った面白いことがしたいな」っていうのが多分思ってたんだと思うけど。そうやって山行ってるうちに、後にbpmc(バックパックモーニングクラブ)を一緒にすることになった中辻さんと出会って、丹波山岳会に入ったんですよね。
bpmcは以前移住イベントでもお世話になりましたね。bpmcはどういう感じでやることに?
僕が小さなテントを買って、黒井城跡に泊まった時に、朝日を見ながら自分でコーヒー入れて、持ってきたご飯を食べてたらすごい美味しくて。「この体験は多分、都会から来た人は楽しいだろうな」と思って始めたんです。
家帰ってもまだ子どもたちは寝てる時間で、家には悪影響もないし。でも、一人でやるのは無理だなと思ってたところに、中辻さんに声をかけてみようと思ってっていう感じです。
なるほど。蘆田さんが以前、ロードバイクで走ってる時に道行くロードバイカーに『一緒に走ろう!』と勧誘されてたのを思い出しますね(笑)
こっち来た当時、朝練も短時間高強度な練習も「一緒にやろう!」みたいな人がいなくて。だから乗ってる人見かけたら全員に声かけてましたね。
自転車で強くなるためにはここに行ったらいつも誰かがいて、何時に出発する便があるっていう状態が大事で。そういうのは大体ショップがやるんですけど、こっちはショップがないから、「じゃあ僕がやろうかな」と思って声かけてましたね。それで出会った人が今にまで結構繋がってて、丹波サイクリング協会に参加することになったり。
それにしても、朝練をハードにやったあと普通に仕事できるのがすごいですね。
それはもう神戸にいる時の実業団トレーニングで、それが当たり前みたいな感じになりましたね。皆さん朝5時に集まって、六甲山登って降りてきて『さ、仕事行こう、お疲れ~』みたいな。
夜は自転車ってどうしても危なくて、必然的に朝しかないのもあります。山で朝ご飯食べるのも、行為の中に色んな山登りの要素があって勉強になるんですよ。
例えばどういうことでしょう?
荷物はコンパクトにしないといけないし、手際よくやらないといけないし、下準備を家でしないといけないし、山の事もちゃんと調べていかないといけない。初心者を山に連れて行くなら色々工夫しないといけないしで、結構勉強になる。で、それが好きだから、どんだけ忙しくてもやると。
仕事が、当初は日赤病院だったけど今は統合されてミルネに勤務していて、平日勤務で土日休みなのもだいぶ助かってますね。そのおかげで山にいけてるので。そんなこんなで、だんだん自転車から山に移行してきてますね。自転車は移動手段であったり、人をどこかに連れていくガイドしたりとかですね、今は。
TJAR出場の経緯
TJAR(Trans Japan Alps Race)はどういう流れで出ることになったんですか?
昔から図書館で山岳関係の本をいっぱい読んできてて、それでTJAR関連の書籍も置いてあったから、存在は元々知ってはいたんですよ。「これ、出れたらすごいなあ」と思ってたんですけど、そこでストップしてたんですね。まあ自分とは関係ないわみたいな。
7年程前に受けたワークショップで、人生を振り返る機会があったんですけど、「自分は何かを成し遂げたっていうもんがないな」と思っちゃって。それで自分に自信がなくなって。これは良くないなと。
蘆田さんにもそんなことがあったんですね。
そう。それで、自分の得意な体力もあったし、山好きだし、これを活かしながら、ギリギリできる挑戦をしてみようと思って。その時にちょうど、京都で友人がやってたトレランショップに走って買い物に行った日に、たまたまTJAR完走者の報告会がやってたので参加させてもらって。
その人は『オリンピックは無理だけど、TJARは普通の人でも出れる。これは努力すれば出れる可能性が絶対あるから』って。それがきっかけで目指し始めた。6年程前かな。
では、6年間も準備されてたんですか?
うん。アルプスはそれまで「ハマるとやばそう」と思ってたからずっと避けてたんですよね(笑)実際に一回行ってみたら、トレランちょこちょこやってたし、自転車乗ってたから体力もあるしで、結構早く登れたんですよ。「これ、いけるんちゃう?」と思って。
でも、TJARは参加条件が色々あって、マラソン要件もあるから近所のABCマラソン出てみたら撃沈して。これまでマラソン歴なかったけど六甲縦走とか長い距離やってたからいけるやろと思ってけど、マラソン舐めてたなって痛感して。そこからトレーニング量を増やしていって。山岳会も入ってたから、山岳会で山行きながら色んなことを教えてもらって。
蘆田さんがダメって相当な条件なのでは・・・
3時間20分でマラソンが走れること。もしくは100kmを10時間半でもいいんだけど、そっちも一応やっておこうと思って、2021年に100km走ってみたけど11時間半かかってしまって。100kmの方はレースに時間使うし、あとのダメージがでかいから、マラソンにかけようと思いましたね。
2022年に出れるぐらいの山の要件は揃ったんですけど、マラソンが3分足りなくて、『あかん、ダメや』ってなって。それまで感覚でやってた練習をちゃんとGPSの時計を買って数字で管理したりして、で、なんとか3時間20分を切れました。
6年間も準備するって、オリンピックより過酷に聞こえます。
出れる要件を揃えても、最後は抽選もあるから運も上げておく必要があるっていうので、あちこち観光に行ったら神社とかもれなくお参りしてましたね、絶対に。常に出るって思ってた。流れ星流れた瞬間にパッと言えるくらいずっと思ってたし、七夕の短冊には毎年必ずゴールするって書いてた。
あと職場の同僚も、僕が抜けた間にカバーしてくれるわけやから、『行ってきていいよ』と言ってもらえるようにしようと仕事も頑張ってましたね。それだけ、我ながら出たかったんやなあと思いますね。
自分にはそんな長い間準備したことがないから、苦労のイメージが全然つかないです。
多分、医学部いく子とかはそれくらいかけて準備していくんじゃないですか。中高あたりから。そうやって、長く準備して成し遂げたものって、今までなかったので。
年を重ねる度に筋肉とか体力つかなくなっていきますけど、長年準備して、ちゃんとレース走れるようになるかっていう不安はなかったですか?
ないね。ただ、回復力の衰えはすごい感じてて。昔は寝たらすぐ回復してたけど。でも、これまで出会った一回り以上年上の人達でもマラソンとかトライアスロンめちゃくちゃ早い人が沢山いて、「年齢は言い訳に出来ないな」って学びました。
ただ回復力は落ちるから、ケアの量を増やしたり、食べるものに気をつかったりとかは意識しましたね。後は数字でちゃんと見ること。毎日体重計に乗るとか、大人になればなるほど実感しましたね。
なるほど。徹底的に準備されてたんですね。
本当に壮絶なレースでしたけど、よくやったと思いますよ。十分自信になった。これができる体力を保ちたいですね。
これからのこと
今後の展望を教えてください。
もうちょっと生活の持久力をあげて、理想は最後、山の中でオフグリッド的に暮らしたいんですよ。そのためにもっと体力をつけたいし、そのための知識や技術も磨いていきたいし、色々やりたいことがあります。
今やりたいのは、まずマラソンを3時間切ること。あと狩猟。まずは罠免許を取って狩猟したいな。それから、自宅の中庭にサウナハウスを建てたい。それで小屋を建てる基礎を学ぼうかなと。
本当に色々ありますね(笑)
あとはピアノに挑戦したい。小さい頃、ちょっとだけやってた時期があるんですけど、それもそんなに真面目にやってたわけではなかったので。
山小屋を買って暮らしたいなとも思っていて。服部文祥さんみたいな暮らしをしてみたいなと。あとイワナの生態観察もしてみたいな。
いいですね。子育てに関して何かありますか?
僕自身、小学校の時は点をいっぱいとるみたいなことを大事にしてたけど、今になってみればそこまで必要ないんじゃないかなと思ってて。だから子どもらには、人と比べるのは変にプレッシャーになるからやめようと思ってるし、学校が求めるような、100点とるような学力は別にいらないかな。
どういう生き方をしたいかによって、職業とか学校とか、進路を選んでいけばいいんじゃないかなと思うようになって。子どもにはそれを伝えるようにしてる。
なるほど。
僕は普段、宿題しろとか勉強しろって基本言わないし。ただ、勉強した方がいいって本人が気づいた時に、自分で勉強して、積み上げてやっていくっていうのは、できるようになってほしいなと思っていて。
したいことができた時に努力できるように。それを今は言っても多分わからないから、まずは自分がそうやって生きていこうと思ってますけどね。まあ、なんとかなるでしょってね(笑)
子どもらの老後は、僕らよりも大変そうですしね。
経済的な発展はもっと衰えてるだろうし、お金ない、環境悪い、じゃあどうやって生きていこうかというね。これだけはいける!っていうのを、何か 1 個持ってもらったら何とかなるんかなと。
あとは自分で野菜とって、肉とって、魚とっていく力があれば、生きていけるから。みんな食うために働いてる訳だから。食うことに直結してできるようになればね、お金お金って働かなくてもいいし、って思ってるんですけどね。
世間一般の子どもは山や川には危ないから近づくなって言われて育ってる印象ですが。
僕は危なくないようにいく行き方を教えてもらってましたね。僕の感覚としては、危ないものがある中で遊んで、死なない程度だったらOKにしてます(笑)
僕自身も今になって振り返ってみれば「多分あれ死んでたな」っていうシーンがやっぱり何回かあって。でも、そのおかげで回避できた危険が沢山あるので、そのギリギリのラインを子どもらにも体験してもらっておくのは非常に大事、本当に。
「何かあったらどうするの?!」って言う親には、なりたくないなと思いますね。
蘆田さんと遊んでもらったら子どもらすごい逞しくなりそう(笑)
まあでも今の子たちは本当に危ないなあと思いますね。山の歩き方知らない子いっぱいいたし。
僕は「山とか地面から離れて暮らしたらダメなんですよ」って感じるように育てられてたんやと思います。マンション の10 階に住んでましたけどやっぱり違和感があったし、そこに違和感を感じるようにされてたとしか思えない(笑)
お父さんに山とか連れていってもらってたって話でしたもんね。
小さい頃はテレビゲームは買ってもらえなくて、本を読むことと外で遊ぶことはなんぼでもよくって、外で遊ばざるを得ない生活というのもあったんです。それで山とか、田んぼのあぜ道とか、近くの川でよく遊んでたので。
当時はゲーム持ってる子たちと比べて嫌だなと思ったけど、その体験があったから、大人になって都会に出た時に芽が出てきて、都会の暮らしに違和感を感じるタイマーみたいなのが仕組まれていたのかなとも思ったり。
求めちゃうところがあったんですね。
元々、人は自然の恵みを使いながら山で暮らしてきたし、そこにいたら落ち着けるっていうのは当然な話だなと思うんですけどね。それに気づくか気づかないかで、気づいた時に行動ができるかどうかは、幼少期に育った環境が大きく影響するんじゃないかなと思いますね。
長男は自転車乗れるし、長女は沢登りとかいけるから、子どもらを色々連れて行くんやけどね。今後は僕が今まで教えてもらってきたノウハウを、色んな人に伝えていく番ですかね。
12年前はまだ、今のような形の移住相談窓口がなかった頃で、当時は蘆田さん同様、東北の震災をきっかけに生活や食、水等、様々な事を見つめ直し、丹波市へ移住される方が多かったそうです。 12年という歳月は、移住してから2,3回転機があって然るべき長さで、蘆田さんの体験談は、移住を検討されている方だけでなく、移住してしばらく経った方々にとっても、様々な角度から勇気づけられるんじゃないかという気がしました。