移住者インタビュー

Vol.111 / 2024.12.27

当初は「ただ実家に帰ってきただけ」のUターンから、安心感を紡ぐ起業へ

見田開さん

こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。

丹波市で高校まで育ち、「とにかく家を出る口実が欲しかった」と、今でもライフワークになっているという音楽の道へ進んだ見田さん。その後先が定まらない中、一旦実家に引っ込むことを決めUターン。

家族との死別がきっかけとなり、長くふさぎ込んだ時期があったという見田さんが、どのように立ち直り、どういった経緯から起業するに至ったのか。また、育った地域に対してどういう心境の変化があったのか、詳しくインタビューしてきました。

 

高校卒業から丹波を離れ、10年ぶりにUターン

 

見田さんの生まれ育ちはどちらでしょう?

 

僕は今年50歳になるんですけど、生まれは尼崎市で、父の実家が氷上町なので4歳頃に引っ越してきました。当時はまだ丹波市ではなく氷上郡でしたね。氷上の北小学校から氷上中学校、柏原高校、そこから大阪の専門学校へ行って。高校までこっちに住んでました。

 

尼崎で生まれたのは、当時ご両親が尼崎に住んでたからですか?

 

そうです。父と母は尼崎で出会って結婚して僕が生まれたんですが、父は長男だったので、実家を継ぐために丹波へ帰ることになったんです。

 

何の専門学校だったんでしょう?

 

音楽関係の専門学校で、主に音響を勉強してました。昔からずっと音楽が好きでバンド活動もしてて、大阪へ出てからも続けてましたね。大学に行けるほど勉強してなかったし、とにかく実家を出る口実が欲しかったんですよ(笑)

 

無性に実家を出たくなる時期ってありますよね(笑)

 

卒業後は別に音響系の仕事に就くわけでもなく、あちこち旅に出たりと10年弱フラフラとして。27歳あたりで、1年間程イギリスへ気になってた音楽シーンを体感しに行きました。

あわよくばレコードいっぱい買ってきて、こっちでDJみたいなこと出来たらなと思ってましたけど、結局楽しい思い出は沢山あれど、別に英語も話せるようにもならず。現地で知り合った芸術家とかの友人とは今でも交流があって視野を広げてくれましたけど、帰ってきたら何にもない自分に不安を感じるようにもなって。

 

なるほど。

 

当時大阪に住んでたんですけど、家を引き払うことになって。それで単純に住むところがないし、「一回田舎に引っ込もうかな」って思って、実家に帰ることにしました。「そのまま暮らしてもいいし、また出てもいいし、一回落ち着いて考えよう」とも思って。

実家に帰って半年くらいして、親から「ここにおってもあんたどうしようもないやろう」ってことで、三田市に理学療法士の学校があって、理学療法士になることを勧められたんですね。理学療法士にそんなに興味があった訳ではなかったんですけど、自分には何もないし、行ってみようと思って行くことになりました。

 

10年ぶりに丹波へ帰ってきた時は何か感じるものありました?

 

ほんまに田舎が良いなって思ったのはここ最近で、当時は正直やっぱり、面白いことも特に何にもないからなんか、「つまらんな」って思ってました。田舎といっても京阪神まで近いし、高い家賃払って都会に住む必要もないし、車に乗れるからここでもいいんじゃないかくらいのもんでしたね。

 

家族との死別を機にふさぎ込み、回復、そして開業へ

 

理学療法士の学校まではずっと実家から通ってたんですか?

 

そうです、新三田駅の近くにあったので、一時間弱で通学できました。社会人入試で、国語と小論文と面接があったんですが、後で先生に聞いてみたら、だいぶ面接で点数を稼げてたみたいです(笑)

することないしで始まった学校生活は4年間行かせてもらって、28歳から32歳までかな。ちゃんと国家試験に受かってその後は理学療法士として三田市の病院とか老健で、十数年間は正社員として働いていました。

 

軌道に乗ったという感じですかね?

 

そうですね、ようやくレールに乗ったかなと。ここまで色々適当なことして生きてきたけど、「結構つじつま合ったかも」みたいな感じで。でも、十数年やってみたけど、最終的に「やっぱし無理やった」みたいなことになったんですよね。

 

十数年やって無理って、何があったんでしょう?

 

後になって思えば、事の発端は理学療法士の学校の最終年に、母と祖母が2カ月間で立て続けに亡くなったんですよね。それがすごくショックで、表現しにくい孤独感に苛まれたりして、それは父も。色んなゴタゴタがあってそれで多分すごいストレスが溜まってて。

会社という組織で働く中でどうしても、非論理的な、理不尽な場面ってあるじゃないですか。それが積もり積もって、十数年なんとかごまかしながらやってましたけど、ある日「これ、もう無理かもしれない」と思ったらもう、動けなくなってしまったんです。

 

なるほど、大変だったんですね。

 

働きだしてから結婚した妻は同じ仕事で、精神疾患とかにも理解のある人やったから『すぐ辞めてしっかり休み』って言ってくれて。別に残業もないし、有給も使えるしで、別に休みって言われるほど働いてなかったんですけど(笑)

それから2年間くらいの間は全然動けなくて、家でずっと寝たきりみたいな期間があったりして。

 

結局父親とはその後どうなったんですか?

 

母が生前の時は、父と僕の間の緩衝材みたいになっていて、父との距離がちょうどいい感じだったんですけど、父と直接向き合わないといけなくなった時に、お互いどうしたらいいのかわからくなっちゃって。歯車が狂い始めたというか。

お互いこのままではまずいと思って、祖母が晩年こっちの実家近くに家を建てて住んでたからそこに僕が引っ越したんです。500mくらいしか離れてないけど、物理的に距離が開いて、少し気楽になりましたね。今も父とは普通に話はするし、険悪でも何でもないんですけどね。

 

寝たきりみたいな状態から復活したきっかけは何があったんですか?

 

それがもう、ほんとたまたま、飲み合わせが良い薬が効いて、「もうこの勢いを逃したらあかんかも」と思って、不意にお遍路の事が頭をよぎって、妻に『お遍路出るわ!』と言って、テント担いで四国に40日間ぐらい出ました(笑)

 

お遍路?!不意に出る選択肢がなかなか突飛ですね(笑)

 

おかげで憑き物がとれたみたいにスッキリして帰ってきて。「もう1回仕事に戻るか、どうしようかな?」って考えだしたんですよね。

以前からヨガ教室に通ってたのもあって、「ちゃんとヨガやったら、自分にとっていいんちゃうかな」みたいな気がして、退職金がまだあるし、今度は『ちょっとインド行ってくるわ』って、3ヶ月間インド行って、ヨガに通ったりしてました。

 

インド?!なんかもう反動なのか勢いがすごいですね(笑)

 

全米ヨガアライアンスが発行してる民間の資格があって、それを取る為に1ヶ月ほど合宿に参加してたんです。それで最終日にたまたま講師としてきた人が、解剖学とか運動学、生理学等のアドバイザーをしてる日本人の先生で。

話を伺うと、日本に海外からリハビリの理論と技術が入ってきた頃に、初めて理学療法士の養成所を作るってなった時の先駆けのような方で、今は整体の先生をされていることがわかって、僕のこれまでの経緯と、これからどうするか悩んでることを相談したんです。

 

たまたまにしては出来過ぎな出会いですね。

 

そしたら『うちで勉強して独立しな』って言われて。理学療法士は本来、お医者さんの処方がないと働けない仕事なので、開業は出来ないんですね。だから先生のマイオセラピーという理論で整体師として開業するのが、今まで以上に人を良くしてあげられるなと思ったんです。

僕はすごい影響されやすいのもあって、「これや!」みたいな(笑)
日本に帰ってから2年間、月2日間は京都へ行ってマイオセラピーの勉強して、先生から免状もらって、開業しよかなと思って、2022年5月頃からここ、「ヨガと整体 タットワ」を始めました。

 

整体だけでなく、ヨガもやることにしたんですね。

 

ヨガは自分にとって、立ち止まって物事を落ち着いて考えるいい機会をくれたこともあって、その整体やヨガで、「何か人の為になれないかな?」という思いがあって。その技術的なことだけじゃなくて、ここに来て安心してもらえるような空間にしたいといった気持ちで開業したところがあります。

僕がゆったり、幸せそうに暮らしてたら、来てくれる人もちょっと安心してくれるかなみたいな、そういう目的があって、「ヨガと整体師しよ」みたいな感じではありますね。

 

開業場所をここにした決め手はなんだったんでしょう?

 

安くで古民家買って改修してやろうかなと思ってずっと探してたんですけど、なかなか見つからなくてどうしようかなと思ってた時に、以前から同じ集落内で知り合いだったIターンの人が自宅をシェアハウスにしていて、その一画であるここを使ってほしいという話をくれたんです。

あちこち結構痛んでたので、そのままはさすがに無理だったので、お金を公庫で借りて改修しましたけどね。僕も気にいった空間に出来たし、向こうも助かったと言ってくれているので、ちょうどよかったかなと思いますね。

 

「こんな贅沢なところはないな」と気づいた丹波の生活

 

最近になって田舎いいなって思うようになったってことですけど、そのきっかけとかあったんですか?

 

一番初めのきっかけは、丹波にIターンしてこられた方のカフェかもしれないですね。「田舎が面白いかも」って思え出したのは。そこが開店して間もなかったので、12年前くらいの話ですけど。彼と仲良くなってから、DJとして音楽のイベントをさせてもらったり、UIターンの人と知り合うようになっていって。その流れでヨガも知って。

地元の連れは地元の連れで今でも仲が良いし、それ以外の「面白い人たちが都会から丹波市に来てる流れあるよな」みたいな雰囲気を感じて。自分は丹波市にすごいこだわりがあるわけじゃないけど、自然も豊かで夜は静かだし、精神的にも肉体的にもいいんじゃないかみたいな。

 

UIターンの人たちはほんと、色んな人いますもんね。

 

なんか面白い人たちもいてるし、面白いことが起こる可能性もあるしっていう感じで、僕も田舎にだんだん馴染んでいったみたいな。だから30歳手前で帰ってきた時は何の期待もなかったし、「ただ住む家がここしかないからここに住んでます」ぐらいに思ったんですよ。

そういう意味ではUIターンの人が、丹波の魅力みたいなものに気づかせてくれて、僕らの全然知らんことを教えてくれるんですよね。新しい店ができたとか、〇〇マルシェが始まったとか、自分では地元のことを別にアンテナ張って調べようとか思わないんですよね。

 

丹波市の人がというか、皆にとって、地元民の地元に対する感覚ってそういうもんだという気がしますね。

 

多分、僕と同じUターンの人なんか特に、ほとんどの場合帰ってくる動機って別に「丹波を盛り上げるために帰る」とかではなく、もちろんそういう人もいるだろうけど、「やることなくなったし一旦田舎に引っ込むか」って、丹波にというよりはただ純粋に「実家に帰る」みたいな感覚だと思うんですよね。

 

生まれ育った地域ってそんな感じですよね。

 

だから僕は今、すごい丹波が好きというか、すごくいいとこに住んでるなっていう感覚で。人がどうこうよりも、都会に長く住んだからわかるけど、やっぱりこの景色はなかなかないというか。

 

都会はコンクリートジャングルですからね(笑)

 

これは持論なんですが、人間の五感は車で移動するスピードに対応できないんじゃないかと思ってるんですね。自然ではない人工物が沢山ある中を目まぐるしく動いてると、自分に入ってくるものが処理しきれなくて、しんどくなるんじゃないかという気がしてて。

田舎は自然に囲まれていて空気もいいし、「体と心に絶対優しいよなあ」と思うと、こんな贅沢なところないなと気づいたんですよ。僕は1回ストレスとかで動けなくなっちゃったから余計に。僕はきっと死ぬまでここにおるんじゃないかなって思うのは、そういうところかな。

 

ちなみに地域とのお付き合いってどうですか?

 

実家とは家を分けていて、僕が世帯主として村のことには出てるんですけど、もっとちゃんと村のことを知る為にしっかり入り込まないとあかんなって思うようになりましたね。特にコロナ禍から。

コロナで色んな行事がなくなって、集まる機会が減ってきてるんですけど、それもあって感覚的に村の中で知らない人がいたり、知らない車が走ったりするようになってきて、「これ、なんかちょっと怖いな」って感じてるんですよね。

 

確かに集まる機会は減りましたよね。

 

都会は近所付き合いが希薄な分、別にコミュニティがあって出かけていくわけですけど、田舎はもう家族の次は村や隣保が基本単位だから、行事にはちゃんと出て、村がどう変化していくとか、昔はどうだったかとか、若い世代がどういうことを考えているとか把握していかないと、僕が不安だなって感じてるんですね。

田舎の良さとか醍醐味ってめんどくさいけど、最終的に安心するし、村に村人がおるから安心して生きられるっていう側面があると思うんですよ。村の人も治療に来てくれたりするから、結果的に自分の住んでる村で開業できたのはすごいよかったなって思います。

 

大それたことは望まない、ささやかな未来

 

今後の展望を教えてください。

 

あんまり僕は論理的ではなく、感覚に全振りで生きてきて、「丹波じゃないとダメ」っていう強い想いはないし、ここで何かを成し遂げたいとか全然なくて。店を構えたから多分この先ずっとここにおるし、「80歳とか体が動く間は整体ぐらいやとできそうやな」みたいに緩く考えていて。

多分65歳過ぎて定年して、「これから何しよう?」って思う人はたくさんおるやろうし。その代わり定年ないけど、もう80歳ぐらいまで、動くまで、仮にヨガができなくなっても呼吸法を教えるとかもあるだろうし。

 

定年って、良し悪しありますもんね。

 

僕は今治療にマイオバイブっていう重い機械を使うんですけど、これが重たくて持てへんようになったらもう最後手でやるし(笑)近所のおばあちゃんが来たら「ワレまだ生きとったんか?」みたいな、ちょっと毒舌を吐きながら、「もう1,000円でええわ」みたいな(笑)

 

緩すぎる(笑)

 

その日の食費にはありつけるし、多分近所の人が野菜とか持ってきてくれるし。なんか80歳ぐらいを想像するとしたら、そういう生活かな。大金持ちにはならないけど、この小さな地域の中で、人とつながって、それなりに感謝されて。年取ってそんな感じで、田舎で暮らせるなら「ここでいいかな?」みたいな感じですよね。

 

それも幸せの一つの形ですよね。

 

そういう細く長くというか。なんか、ワッとお客さんに来られても困るし、忙しくなり過ぎるのは嫌やなみたいな(笑)

年取って、することないから家でテレビ見て、妻に「邪魔やからちょっとどっか行っといて」って言われるようなことになるのは嫌やなあと。何か自分で、そんなに儲からんでもいいから、死ぬまでは動けたらいいなあって思いますね。

僕はもう、本当になんか申し訳ないぐらい適当に生きてこさせてもらったし、今まで十分ゆっくりさせてもらったんで、老後にゆっくりしたいという気持ちはあまりないですね。のんびりはしたいけど(笑)

でも、僕の経験が、ちょっとした安心感に繋がってもらえると嬉しいです。

丹波で育った見田さんのお話は、自分自身Iターンの身で、自分の知らない昔の丹波の話がとても面白く感じられたと共に、地元や実家に対する意識とか、「これはもう真理かもしれない」と共感する場面が多々ありました。 見田さんはどんな話題でも真っすぐ丁寧に、和やかにお話していただき、ここでのお話は丹波市に限った話ではなく、およそ「地元生まれ地元育ちの人の、地元に対する普遍的な意識の傾向」なのではないかと感じた次第。 近年になって「移住」や「Uターン」という言葉が以前より使われるようになったものの、本来Uターンはそんな堅苦しいものでもなく、特段意識することもなく「家に帰る」という感覚が「普通」なんじゃないかということを、改めて再確認させていただいたインタビューでした。