ゆくゆく親の助けになれたらという思いでUターン
德永由実さん


こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
丹波市で生まれ育ち、高校卒業後から丹波市を長く離れていたという德永さん。結婚後、姫路市で10年近く暮らしてきましたが、結婚当初からご主人とは「親の面倒もあるのでいずれは丹波に」という話をしていたとのこと。
丹波市出身者から何かと話題にあがる「家を継ぐこと」「親の面倒をみること」。それでも、みんながみんなその選択をとる訳ではない中、実際にUターンされた当事者である德永さんに、当時の心境と今に至るまでの経緯、これからの展望を伺ってきました。
3人目が産まれるタイミングで姫路からUターン
德永さんの生まれ育ちはどちらですか?
青垣町の大名草です。神楽小学校、青垣中学校と地元の小中に通って、氷上高校の生活科に進学しました。被服や調理が好きだったのと、なんせ机に向かって勉強するよりは何か作ったりする方が好きだったんです。
高校卒業後はどうされたんですか?
高校卒業後は大阪文化服装学院という服飾の専門学校に3年間通って、神戸の靴会社にデザイナーとして新卒入社しました。神戸市の長田の会社なんですけど、中国に工場があったので、仕様書を流して作ってもらったり、展示会や視察で何度か中国に行ったりしていました。その後しばらくして結婚しました。

結婚されたのはいつだったんでしょう?
23歳の時に結婚したので、2007年ですね。夫は大阪出身で、専門学校時代にバイトしていた居酒屋の店長だったんですが、そこからのお付き合いでした。
店長ということは、結構年上だったり?
7つ上ですね。
じゃあご主人は若くして店長されてたんですね。
当時のお店はフランチャイズのお店で雇われ店長だったので、子どもが生まれることもあって、生活リズムを合わせてもらうために仕事を変えてもらったんです。その関係で姫路市に引っ越すことになって、丹波に戻るまで10年程姫路に住んでいました。

なるほど。お二人とも仕事はどうされたんですか?
私はキッズ・ベビー用品のインターネットの販売してる会社があって、そこで長く社員としてWEBページ製作や商品企画などをしていました。あと、趣味程度ですが子どもの出産の合間に帽子など小物を作って販売したりしてました。夫は日中に洋食屋さんで働いてたんですが、姫路に引っ越してからは飲食を離れて工場勤務をしてました。
元々Uターンすることは考えてたんですか?
自分の兄弟はみんな関西方面に出てしまっていて、別に家業をしている訳でもないんですけど、実家を継ぐとすれば私ぐらいしかいないこともあり、結婚当初から「いずれは丹波に」という話を夫にしていました。ゆくゆくは親の面倒を見る必要があるかなという気持ちもあったりで。
それで3人目ができたことがわかったタイミングで仕事を辞めたのもあるし、あんまり先になると子どもらの友人関係も色々大変だろうしと思って、「じゃあ帰ろうか」ということになって、2018年に実家に帰ってきました。

子どもは丹波市に引っ越すことに抵抗なかったんですか?
一番上の長男は当時小学5年生の時でしたが、気を使ってたのもあるかもしれませんが『楽しみ』とは言ってくれてましたね。次男は小学校1年生で、向こうで保育園を長くいってたのもあって『友達と離れるのは嫌や』っていってましたけど、結果的に一番馴染んでるかもです。
長男次男は、こっち来るまでは都会の子みたいな感じですもんね。
そうですね。姫路も田舎の部分があったりしますけど、学校まで徒歩5分ぐらいの距離で、歩けば何でも買い物に行けるぐらいの距離にありましたし、それを考えたら、やっぱり丹波は何かと送迎が付き物なので、しっかりした田舎だなあと思いますね。
長期休みとか、事ある度に子どもを連れて帰って来てたんですけど、周りを歩くだけで気持ちがいいからよく散歩に連れて行ったり、元々自然を楽しんでくれていました。

親の面倒をということですが、帰ってくる時ご両親は普通に元気だったんですか?
そうですね。父は元々会社員として働いていましたが、引退してからは元々趣味の射撃や居合道から、さらに打ち込んでシーズン中は猟友会で毎週のように山へ行ったり、体はずっと動かしてきてたので元気にしてました。
母も当初は「え?なんで帰ってくるん?」といった感じでした(笑)それでも帰るならこのタイミングやしというので、半ば押し切って帰った感じでした。
ゆくゆく何か親の助けになれることがあればと思って帰ったんですけど、帰ってから4年ぐらいたった頃に父が倒れて、昨年の11月に亡くなりました。少しは介護も手伝いながら、最期を看取ることができたので、結果的に帰ってくることを選んで正解だったかなと思ったりします。
継ぐ家業があるわけではなく、まだ健在な親の、ゆくゆくの面倒の為に帰るって、ほとんどの人は二の足を踏みそうな決断ですね。
本当に。3人目ができたタイミングで仕事を辞めたっていうのがなかったら、帰ってなかったと思います。もっと遅くなったりとか、それこそ両親に何かあってからになってたとか。めぐり合わせですね。
18年ぶりの丹波暮らし
住まいはずっと実家なんですか?
最初の2年間は実家で親と同居してましたが、父が倒れる前に、近くの市営住宅にダメ元で応募して、無事抽選で通ったので今はそこに住んでいます。学校までは多少近くなりましたね。
お二人のお仕事はどうされたんですか?
夫は春日町で工場勤務をしています。私は縫製の仕事を経験したこともあって、丹波市内のアパレル関係の会社で働いていましたが、コロナで経営が厳しくなって倒産したこともあり、子育てや将来的に叶えたい夢に向けて資格を取ったりと、退職後1年間はゆっくりして。
その後は近くの物流会社に週4日ほどパートで働きつつ、また別の会社で週1日、ほぼ在宅勤務でwebデザインやチラシ作成、インスタ代行などの業務をしています。

今、縫製の方は、娘の人形の洋服を作ったり趣味として手仕事を楽しんでいます。左側の服はこども園の制服をお人形スケールで作ったもの。帽子も手作りです。

また、一昨年ぐらいから地域の福よせ雛の実行委員に関わっていて、櫓などの小道具を作らせてもらったりして、なんせ何か作っていますね。もっと縫製の方でも色々やっていきたいと思いつつ、時間が足りないのが悩みどころで。
18年ぶりに丹波市に帰ってきた時はどんな感じでしたか?
正直、帰りたいとは思ってなかったんですよね。むしろ「高校卒業したら丹波出るぞ」って思って出た感じでしたし、私はやっぱりだいぶ都会に慣れてしまっていたから、当初は不便さがだいぶ目立つ印象でした。もちろん落ち着く場所ではあるんですけどね。

ちなみに、逆に都会の方に親を呼ぼうという話にはならなかったんですか?
ならなかったですね。大名草の実家は母方なんですが、家を空けるという感覚は母にはないと思うので、連れ出すという考えはなかったです。おまけに当時は両親ともに元気でしたし、もし親も出たかったら兄弟が都会で家建てたタイミングでその話があったと思いますね。
なるほど。子ども達は今どんな感じでしょう?
長男は調理に興味があって、私の母校である高校に通っています。姫路にいる時から釣りが好きで、よく海や川に釣りに行ってたんですけど、その流れから「魚さばくの好きだし調理してみたい」というので、高校進学に繋がったんです。
あと、長男は家のすぐ近くのレストランでバイトさせてもらってるんですが、目と鼻の先で、保護者としては超安心ですね。
家のすぐ近くっていいですね。
次男は当初、長男の影響でサッカーを始めたんですが、小学校の頃から海外とかも経験させてもらっていて、今は小野市のチームに入って平日ナイターが3回、土日は日中ですけど送り迎えをしています。

小野?!結構遠いですね。
丹波市では中学生のクラブチームがなくて、最寄りでは福知山もあったりしますが、小野のチームが親子ともに合っていて頑張って通ってますね。土日は夫とも分担しながら、なんとかやってます。
あと、一番下の子はもう生粋の丹波っ子なので、うまく馴染みながら生活してますね。
丹波市のいいところ、悪いところと言われればどうでしょう?
いいところは、とにかく田舎ならではの自然ですね。あと結果的にですが、親の面倒を見やすい気がします。なんやかんや周囲の人から声がかかるし、近くに住んでるから関わりも持てるし。こちらも孫の面倒を見てもらったりするのでかなり助けてもらっている側面もあります。
悪いところは、不便。青垣は浄化槽の管理とかもありますが、特に移動ですね。どこに行くにも距離があるし、子どもの学校までの送り迎えとか、別に運転は嫌いじゃないんですけど、移動だけに費やされる時間が相当あるので、子どもが楽しく通ってくれてる間はまだいいですけど、ちょっと対策がいるなあと感じますね。

昔と今で何か変化を感じることはありますか?
そんなに大きく変わらないですが、やっぱり色々なくなったと感じる反面、Iターンの人が少しずつ増えてるなあという実感がありますね。昔、私の旧姓は「う」から始めるんですが、この辺りは大体みんな「足立」か「芦田」で、学生時代の出席番号が24番だったりしたんですけど、そういったところからでも少し変化を感じたりしますね。
これからの暮らしの展望
今後の展望はどのようにお考えですか?
ここまでは正直、引っ越しや父のこと、子育てに追われていましたが、何年か先にいつかまた夫とお店ができたらいいなという思いがあります。夫はやはり料理を作るのは好きみたいで、焼き鳥とか特に鳥料理が得意ですし、居酒屋になると思いますけど。
私も作った小物とかを販売できたらいいなと思ったりするので、どういう形態で、どこで開業するかはまだこれから要検討ですね。お店ができたら、いずれ長男にも「一緒にどう?」と声もかけられるし、いいかなと。
あと、父の実家が淡路島にあって、そちらも空き家でまだあるんですよ。山で育ったから海が好きだったりもしますし、お店のこと含め、これからの子育ての状況とかも考えながら、先を決めていければいいかなと思いますね。
いいですね。ご主人とは以前からまた一緒にやろうと話されてたんですか?
最初は私から一方的にですね。私の方から言って仕事を変えてもらったのもあるし、出会いも出会いだったし、お店に作った小物を置けたらいいなというのもありました。夫は魚さばくのも得意だし、全般できる人で、私はフォローに回るだけなんで。
丹波市に帰ってきてから、なくなったお店もありますが、増えたお店もありますし、そこに仲間入りできたらいいなと思いますね。

個人的に家族経営ってちょっと憧れます。
先日、長男が貯めたバイト代で城崎旅行を私たち夫婦にプレゼントしてくれたんです。『僕らはお祖母ちゃんとこにお世話になるから、気にせず行ってきて』と言ってくれて。夫婦だけで出るなんて何十年ぶりかわからず、「何喋ろ?」って感じでしたけど(笑)
それで、夫とお店の話をして。以前まで夫は「難しいんちゃうか」と乗り気じゃなかったんですが、『最近になって、やってもいいかなと思い出してきた』とそんな話もできたので、いい機会をもらったなと、長男には感謝です。
高校生でバイト代くれるってすごいじゃないですか。
その前も、『学生時代に貯めたお金しか自由に使えないから』と、最初に立てた目標は「パソコンを買う」で、結構いいスペックのものを買ってましたね。また、友人家族が住んでいるカナダに遊びに行くというのでそれも貯めるらしいです。もう子ども達も、そんなことができる年になるまで、時間が経ったんやなって実感しますね。
私が生まれ育った地域は、昔あったスーパーや郵便局がなくなったり、空き家も増えてきてますけど、その分移住者も増えてきて、何か新しく始まる空気感も出てきたりしているので、その流れに乗って、自分たちも楽しく暮らしていけたらいいなと思っています。

Iターン者が移住する上で、「移住するかどうか」で判断に悩むことが多々あるように、Uターン者の中でも「実家に帰るかどうか」で悩まれるケースは決して少なくないと思います。いずれにせよ、判断する時点でどうするのが正解かわからないことの方が大半で、当初の想定とは違う事態になることも多々あります。そんな中、德永さんは『結果的に帰ってくることを選んで正解だったかなと思ったりします』と、そう思えるように日々生活されていたこと、当時の判断が間違っていなかったと思えるように動いてこられたことは、地方で暮らすことを希望する人たちにとって一つの道筋となっている気がしました。