「楽しく豊かな暮らしがしたい」~風土を紡ぐ丹波布に惹かれてIターン
太附智子さん


こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
大阪府の八尾市で生まれ育ち、結婚するまでの間はスノボやロードバイク、トレイルランニングといった趣味に生きていたという太附さん。海外や過酷なレースにも積極的に出場していたものの、大学生の頃からごまかし続けてきた膝のケガが悪化。生きがいを見失いかけた頃、緩やかに続けていた陶芸がご主人と出会うきっかけとなり結婚。
京都で始まった結婚生活の中で、染織への興味が湧き、それまでは生活の為に働いていた仕事を見つめ直し、「楽しいことを仕事にしたい」と思うようになったというその背景を、丹波市に移住するに至った経緯を詳しくインタビューしてきました。
趣味に生き、結婚を機に京都へ
ご出身はどちらですか?
大阪の八尾市で生まれ育ちました。41歳で結婚するまではずっと八尾市に住んでいましたね。
高校卒業後もずっと実家住まいだったんですか?
そうです、大阪産業大学卒業後の就職先も八尾市だったんです。診療所の医療事務で、20年近く勤めていました。そこは週休3日みたいな感じの勤務だったので、八尾にいた頃はずっと趣味に没頭してましたね。
医療事務の仕事は、もともとそういうのがしたかったんですか?
いや、全く(笑)
学生の時から遊ぶのが好きで、当時はスノーボードとかすごい没頭してたんですよ。それで趣味に時間をかけたくて、休みの多い仕事を選びました。本当に学生の時は、海外に行って滑ったり、冬休みは長野とかで住み込んで滑ったり。ハーフパイプの大会とかも転々とずっと回ってたんですよね。

すごいアクティブだったんですね。
そうですね。でも、大学生の時に怪我しちゃって。それでもやってたんですけど、ちょっとしんどくなっちゃって、スノボは少し遠くなったんですね。その後、また違う趣味を見つけたんですけど、でもずっと膝の調子が悪くって。
膝の怪我だったんですか?
そうです。その時は「精密検査しないで治しちゃおう」と、社会人になってからもずっと痛みながらも滑ったりしてたんですけど、だんだん毎週末とか行く時間もなくてしんどくなるし、行く友達もだんだん減ったから、行く機会が減ってきて。
その頃から陶芸とか毛色が違う趣味も始めたりもしてたんですけど、やっぱり運動するのが好きでしたね。

ケガしてるのによくやってましたね(笑)
話しが少し飛びますが、音楽も好きで、アフリカの音楽について調べてたら、アフリカを自転車で旅行してる人を知ったんです。その人が大阪に本社があるミキハウスの人で、ちょうど八尾の本屋さんでその方の講演会があったんで、行ってみたらすごい好きになって。
それで、実家から歩いてすぐのところにスポーツバイク屋さんがあって、そこの店長さんと仲良くなったのと、八尾にサイクリングロードがあるんですけど、そこに先ほどの人現れたりしないかなという気持ちもあって、ロードバイクに乗り始めたんです。
ロードバイクを始めたのは大体いつぐらいからですか?
30歳手前ぐらいでしたね。近所のスポーツバイク屋さんにはロードバイクだけじゃなく、トライアスロンする人とかもいて、『一緒に練習しよう』『ともちゃんも走ったらええねん』と誘ってもらってから、山を走るようになっていったんです。
大阪にあるダイヤモンドトレールっていう場所を練習場にしてて、最初は30km程を10時間以上かかって走ったんですけど、もうヘロヘロで。でも、終わったあと皆で焼肉屋に駆け込んでワイワイしたりするのも楽しくて、山にのめり込んでいきましたね。

結局、膝のケガはどうなったんですか?
痛いままだから、もうテーピングをぐるぐる巻きで。走ったり、レースに出たり、みんなでワイワイするのが楽しかったんですよね。
ずっと続けてた医療事務の仕事は、基本的にもう生活の為という感じだったんですか?
それはそれ、って感じでしたね。とにかく趣味が楽しくて、ずっと遊んでる感じでした。八尾から紀伊半島の南まで180kmぐらいあるんですけど、バイクで行って、次の日山入って走ってとか、そんな普通じゃない生活が面白かったんですよ。
海外の100kmぐらいあるレースを、夜中ずっとヘッドライトつけて完走して帰ってきたり。でも最終的にはやっぱり膝を故障したんですね。

バイクとかもダメになった?
痛かったですね。山を走るために治そうと思ったら、前十字靭帯が切れてて手術になると言われて、手術したんですね。リハビリもしましたけど、痛みがなくならなくて、走れなくなったんです。
すっかり生きがいを失った自分はこれからどうしようかとなった時に、ほそぼそと続けていた陶芸教室の先生から『絵付けの講座があるから行ってみたら?』と勧めてくれて。暇だったし、「絵描くのもいいな」と思って行ったんですけど、そこで出会ったのが今の夫でした。

なるほど。同じ生徒側だったんですか?
夫は先生側ですね。講座があったのは京都の陶工の職業訓練校で、夫は指導員でした。趣味程度でやってた陶芸が、教えてもらっているうちに上手になっていくのが目に見えてわかって、すごく面白く感じるようになっていきましたね。
では、結婚を機に八尾を離れたんですかね?
そうです、京都の左京区へ引っ越しました。それから、京都でたまたま、人間国宝だった志村ふくみさんという染織家の方の展示会を見にいったんですが、「植物でこんな色が出るのか」とすごく感動したんですよ。それが染織との出会いでした。

織物への興味から、丹波市へ移住
結婚を機に京都へ移り住んで、丹波市に移住するまでの間は、どういう流れだったんでしょう?
結婚してからしばらく、私は趣味程度に陶芸と織物に勤しんでたんですけど、でも、そうこうしてるうちに、夫が色んな無理が祟ったのか、仕事に行けなくなってしまったんですね。
私は税務署で事務のバイトとかをするようになったんですけど、夫は動けない状態が続いて。二人にとって辛い時期でした。
それは大変ですね。
なんとか辛い状況から脱出したかったし、やっぱり人生は1回きりなので、どうせなら楽しく、喜びのある人生を送りたいと思ったんですよね。それで自分としては、今は織物が楽しいから、「楽しいことを仕事にしたい」と思うようになっていったんです。
それで夫に『織物の勉強がしたい』と相談しました。それで、私だけ丹波との二拠点生活みたいになることを許してくれたので、丹波での生活が始まったという感じでした。夫の実家が京都だったこともあって、義理の家族にも助けてもらいつつ。

京都にも織物はあるでしょうけど、丹波市だったんですね。
そうなんですよ。京都の織物は分業制が基本で、「自分で織物を生活の糧にするなら、1から全部自分で完結できるのが素敵やな」と思って調べてたら、見つけたのが丹波布だったんです。
それで伝承館の存在を知って。料金も安いし、5日間の短期講習もやってたのでまず短期講習に行ってみたんです。その時、初めて丹波布を実際に触ってみたら、すごい柔らかくて、癒されたんですよね。それがきっかけで、やってみようと思って、そのまま長期もやることになったんです。

丹波市での住まいはどうされたんですか?
短期の講習を受け終わってから調べ始めました。以前から、京丹波町に夫が焼物をする為の窯を作ってたんです。そこから通えればいいかなと思って京丹波町で物件探してたんですが、物件自体がなかなかない地域だったんです。
そしたら、丹波市に“棉ばたけ”っていう、丹波布を学びにきた人が多く入居している農村滞在施設があって、たまたま長期に通うことになった時に入れたんです。それが大体3年前で、今でもそこでお世話になってます。
では、今は伝承館を卒業されたんですか?
最初の2年間は伝習生で、今は伝習生のあと、研究する人みたいな感じであと2年行かせてくれる専修生というのがあって、その専修生の2年目です。施設や道具も使わせてもらったりもしてますね。棉ばたけから通いやすくて助かっています。

丹波市での暮らし
丹波で暮らしてみてどうですか?
丹波布を通してになりますが、自分たちの普段の暮らしで触れるもの、草や木、丹波の風土を、そのまま布に映すことができる。そのままの自然を、糸に映して、布にできるって、丹波の風土そのものだなあと感じますね。だからこそ守られてきたのかなと感じます。
丹波布があったから、私も丹波市のことを知れたし、ここで暮らしているから、それを感じることができたんかなと。すごくいい風土で、誇りに思いますね。地域の風土と、作り手のエネルギーが合わさって、人を感動させる良い布になると感じています。

なるほど。逆に、丹波市の悪いところとかありますか?
強いて言えば、丹波市は人工林が多すぎるかなと。かつて山を走っていた、山好きの私からすると、「もっと雑木林が欲しいなあ」という印象ですね。最初来た時はちょっとイメージと違ってびっくりしたくらいで。
不便さといったものは全然感じないですね。むしろ不便さがいい感じで、あまりに便利すぎるのもなんだかなあと思うので。
今取材受けてもらっているこの山南町の家は、どういった流れで購入することになったんでしょう?
夫がずっと、元の職場での復帰に向けて休職してたんですけど、私の丹波での暮らしを見てくれていて、『僕も復帰という道ではなくて、自分でやってみたい』と言う話になって。『じゃあ、もういっそのこと丹波でいいんじゃない?』と話していたら、この物件を見つけたんですよ。
これまでも色んなご縁に導かれるように、今に至ってますが、この物件もすごい奇跡みたいな感じだったんですよね。

どんな奇跡だったんでしょう?
この物件はすごい人気で、私が内覧希望をした時はもう先約で決まってたみたいだったんですが、『内覧だけになると思いますけど、それでよければ』と言ってもらったので、とりあえず内覧だけしたんですね。でも『もうほぼ決まってますわ』という感じだったんです。
1ヶ月くらいして、移住相談窓口の担当だった方から連絡あって、『どうなるかわからないし、念のため一回不動産屋さんに連絡してみたらどうか』と言ってくれたので、連絡してみたんです。そしたら、先約が破談になったみたいという話で。
そんなこともあるんですねえ。
所有者さんも、内覧希望がいっぱいきてるけど、「誰に売るかは自分で選びたい」という話になったそうで。そしたらチャンスが回ってきて、気に入ってもらえて、『太附さんに譲りたい』ということになったんです。
所有者さんも同じく陶芸をされていたので、設備付きの物件だったこともあるし、私が丹波布をやってることもあって、地域の人とも仲良くやってくれるんちゃうかなと言うお話で。すごいご縁をいただいたなあと感謝です。

それは本当に奇跡的なめぐり合わせですね。
所有者さんは今でもたまに見に来てくれたりして、こないだは庭木の剪定もしてくれましたね。お世話好きな方で、有難いです。
ご主人はまだ合流されてないんですよね?
そうですね。今は私がまだ専修生なのもありますし、夫は実家に住みつつ、大阪でバイトを始めたりして、二人で少しずつ、この家の片付けとかをしつつ、丹波での新たな暮らしに向けて準備を進めているところですね。

豊かな生活にむけて
今後の展望を教えてください。
やっぱり、この物件購入でも奇跡的なご縁をいただいたので、ここを、夫が焼き物をして、私が織物をして、色んな人に来てもらって、関わってくれる皆さんを癒すような場にしたいですね。
心地のよい、豊かな生活がしたいなって思うし、今まで結構しんどい経験もしてきたので、これからは笑顔が絶えないような、笑顔が集まる場所にしていきたいです。

専修生が終わったら、あとは自分でやっていく感じになりますもんね。
そうです。自分の作品を作って販売していったり、ここで丹波布の教室とか、ギャラリーもしたいなとか、色々やりたいことがあるんですよね。
丹波市は海外にも姉妹都市があったりしますので、日本の文化として丹波布や陶芸の勉強がしたいという海外からの留学生とか受け入れたりも出来たらいいなあとか、そういった場所にもなれるんじゃないかと思っています。
ご主人と合流してから、色々始まっていきそうですね。
そうですね。去年は二人で丹波市商工会の起業塾にも参加して、お陰様でやる気の原動力にもなりました。今も商工会に補助金の相談に行ったりしてますし、これからの準備も、少しずつですが進めているところです。
今年から自治会にも入会しましたので、地域のあれこれも教えてもらって覚えつつ、丹波での暮らしをより満喫していけるようにしたいと思っています。

人間万事塞翁が馬、七転び八起き、山あり谷あり、楽あれば苦あり、苦あれば楽あり等々。移住者に限らず、人の数だけ人生があり、人生の話を伺うと本当に色々あるなあと思います。 「転機となるきっかけ」の、そのきっかけ自体は色んな人に共通することも多く、似たようなことも多いんですが、そのきっかけが転機になるかどうか、するかどうか、できるかどうかは人によるもので、太附さんが常に「楽しく生きたい」「豊かに生きたい」と前を向き、進んでいく姿は、多くの方の参考になるのではないかと感じたインタビューでした。