丹波初のJリーガー~地元に本気でサッカーができる環境をつくるべくUターン~
伊藤龍生さん
こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
丹波市柏原町で育ち、小学4年生の時に「Jリーガーになる」と父と約束してサッカーを始めた伊藤龍生さん。中学時代は丹波からヴィッセル神戸のジュニアユースに通い、高校からは鳥取県の米子北高校へ進学。その後、鹿屋体育大学を経て、丹波市で初となるJリーガーになりました。
現役引退後は介護・福祉の仕事に携わりながら、子どもたちとの関わり方を学ぶ日々を送っていました。当初は丹波に帰るつもりはなかったといいますが、たまに地元へ戻る中で「やっぱりいいな」「居心地がいいな」と感じるように。さらに、丹波市内で小学生のサッカーの試合を見たことをきっかけに、「この子たちは中学生になったらどうなるんだろう」と考えるようになったそうです。
丹波に、本気でサッカーに取り組める中学生年代の環境をつくりたい。そんな思いから2024年11月にUターンし、現在は中学生を中心としたサッカーチーム「丹波FC」を立ち上げ、指導者として子どもたちと向き合っています。丹波を離れ、サッカーを通じてさまざまな経験を重ねてきた伊藤さんが、なぜ今、丹波で子どもたちの未来を支えようとしているのか。詳しく話を伺いました。
父との約束から始まったサッカー人生。丹波を離れ、プロの世界へ
伊藤さんの生まれ育ちはどちらですか?
父が静岡の生まれ育ちなんですが、僕の生まれは福知山市です。その後丹波市柏原町に引っ越しまして、新井小学校、柏原中学校に通っていました。ですので、育ちは丹波市ですね。
以前、小学校4年生の時に「Jリーガーになる」とお父さんと約束されたと新聞記事で見ました。
小4までは公園で少しボールを蹴るくらいで、それまで全くしていませんでした。みんなが楽しそうにサッカーをしているのを見て、「自分もしたいな」と思ったのがきっかけで、柏原キッズFCというチームに行かせてもらいました。
父に『サッカーを習うなら、Jリーガーになるという約束をしろ』、『家族はお前だけじゃない。姉も妹もいる。お前に時間をかけないといけなくなるから、中途半端にサッカーをするのはやめてくれ』と言われていました。だから『絶対になります。やらせてください!』と言って、僕のサッカー人生がスタートしました。
お父さんは厳しい方なんですか?
めちゃくちゃ厳しいです。大好きですけどね!親としても送り迎えがずっと必要で、生活がサッカー中心になりました。姉や妹の時間がなくなっていたと思います。中学では丹波からヴィッセル神戸のジュニアユースに通っていました。JR篠山口駅から三宮まで行って、練習拠点まで片道2時間ちょっと。父が本気のところに行かせてくれたという感じです。
『推薦をもらえなかったらそこでサッカーはやめなさい』とも言われていたので、小学校から大学まで、全部推薦で行かせてもらいました。
高校は鳥取の米子北高校に進まれたと伺ってますが、どういう経緯だったんでしょう?
『ヴィッセル神戸のユースには上がれない』と言われたのが中学3年生の夏でした。そこから別の進路を選ぶことになった時、一度サッカーをやめようかなと思って、親にも相談しました。
するとヴィッセルの監督から『米子北に行ってこい』と言われたんです。それで練習参加に行ったら手応えがあって、特待をいただけたので、もう一回チャレンジしようと思いました。高校1年から寮に入りましたので、このタイミングで丹波を離れました。
高校3年生の時には、全国高校選抜にも選ばれたんですよね?
そうです。Jリーグ選抜と日産スタジアムで試合をしました。Jリーグ選抜は、ワールドカップメンバーに入っている、久保選手、大迫選手などのタレントが居ました。そこで点も取らせてもらいました。
その後、欧州遠征、オランダ遠征もあって、そこでも点を取ることができました。少しは活躍できたかなと思います。
高校の後は、鹿児島の鹿屋体育大学ですね。大学時代はどうでしたか?
大学の前半は正直、高校卒業まで生活をサッカーに全振りしすぎた分、大学で少し気が抜けてしまって。それでサッカーから離れる時期があり、「もう一回頑張らないといけない」と思ったのが大学3回生でした。
4回生の時は、コロナで大変な時期でJリーグチームの練習参加が決まっているのに参加ができない、Jリーグチームの練習参加が制限されているといった中、それでやっとプロ契約できたのがJ3のアスルクラロ沼津でした。
周りからはエリート街道まっしぐらに見えたかもしれませんが、本人としては色々あったんですね?
そうです。中学時代はケガに悩まされましたし、『エリートやん』と言われるんですけど、「いやいや、違う。色々ありましたよ」と思います。
J3ではどんな感じだったんでしょう?
当初はスタメン組で練習させてもらっていたこともありましたが、練習試合でもゲームラスト10分出るか出ないかといった状態で、ずっとグラウンドの外で走ったり、体幹や筋トレをしたり、自分のできることをして、いつ呼ばれてもいいように準備する日々が1年間続きました。
選手生命は長くないですし、求められてるところに行きたくて、FCティアモ枚方に移籍しました。
プロの世界はやはり厳しいんですね。
そうですね。ティアモ枚方では最初はずっとスタメンで出ていたんですけど、徐々に結果が出せなくなるとベンチ外になりました。ベンチ外の日々が続いて、メンタル的にきつくなりました。
自分はメンタルが強いと思っていたんですけど、意外と弱かったです。「もう俺、どれだけ頑張っても、将来の夢だったJ1やワールドカップは叶わないな」と思って、スパッと引退しました。Jリーガーになれて一定満足した自分もいました。
引退後は大阪や神戸に住んで、介護・福祉の仕事をされていたんですよね?
そうです。子どもと遊んだりするのが好きで、子どもたちと楽しいことをできたらいいなと思って、ティアモ枚方のスポンサーをしてくださっている福祉の会社に就職させていただきました。勉強させてもらいながら現場に入り、人との関わり方も勉強でき、すごくいい2年間でした。
「この子たちは、この後どうなるんだろう」地元の子どもたちを見て芽生えた思い
以前から丹波に帰る気持ちはあったんですか?
はっきり言うと、丹波に帰る気はなかったです。高校から丹波を離れていたので、何とも思いが浮かばなかったです。でも、たまに丹波に帰ってくると、「やっぱりいいな、ここ」「居心地がいいな」「人がいいな」「気持ち的にも楽やな」と感じるようになりました。
それで現役を引退してから、丹波市で小学生のサッカーの試合に呼んでもらって見に行く機会があったんです。その時に、「昔は俺もこんなふうに楽しんでいたんやな」と感じましたし、同時に「この子たちはこの後どうなっていくんやろう?」と考えるようになりました。
なるほど。
中学生になったら、丹波市にチームがないので外に出てしまう。せっかく小学生の時にいい指導者がいても、中学からは親は近くで子どもの成長を見守れない。それが「すごくもったいないな」と思いました。地元に本気でサッカーができる環境があったら、めちゃくちゃいいなと。
それで小学生チームの方々にも相談し、『中学生チームを作ろうと思っているんですが、どう思いますか?』と聞くと、『やってほしい』と言ってくださる方が多かったんです。子どもを見ていると、これから先も見たいなと思うようになりました。
子どもがサッカーしてる親からすれば有難い話ですよね。
丹波市はこどもの人数が減っているのでは?と感じています。なので「子どもが丹波で成長して外に出ても、もう一回帰ってくるシステムを作らないといけない」と、自分なりに考えました。丹波のためというより、子どもたちが「帰ってきたい」と思えるようにしたい。スポーツで丹波を盛り上げたい。
それで、自分で中学生主体のサッカーチーム、丹波FCを立ち上げることにし、「丹波が好きやし、このタイミングで帰ろう」と思いたったのが2024年11月でした。一度はサッカーから離れると決めましたが、やっぱりサッカーが好きでしたね。次はプレイヤーではなく、指導者として、子どもたちに伝える側に回りたいと思いました。
子どもが少ないのは事実なので、設立当初は大変だったのでは?
最初は何人もの人に『やめとけ』と言われました。『子どもの人数もいないし、そんな熱量もない』と、とにかくたくさん言われました。
実際帰ってきたら、すごく熱い子どもたちがいました。保護者からは『丹波には環境がない』と言われることもありますが、僕は『環境じゃないです。やるか、やらないかです』と伝えています。僕は丹波から代表に入ったので、環境のせいにはできないと思っています。
指導者になるなら、丹波市外で続ける選択肢もあったと思いますが。
確かに声をかけていただいたところもありました。でも、僕は丹波にこだわりがあって、『絶対に丹波でやります』と言いました。でも正直、最初は10人来たらいい方だと思っていましたが、結果的にすごく熱い子どもたちが1期生で20名くらい来てくれましたので、それで僕も覚悟を決めましたね。
スポンサーを募るのも簡単ではないと思いますがどうされたんですか?
お声掛けさせていただいたら、『是非サポートさせてくれ!』『応援させてくれ!』と言ってくれる人が多く、「本当に暖かい町だな」と思いました。すごく人が温かいなあと実感しています。
父が自営業なので、そのつながりで紹介してくれることもありました。皆さん、僕を応援しているというより、子どものことをすごく気にかけてくださっているんです。『龍生がやるなら応援する。子どもを頼むぞ!』『子どものためならいくらでも応援するぞ!』という会社さんばかりなんで、人にも恵まれているなと思います。
12年ぶりに戻った丹波で、子どもたちと向き合う日々
昔は車も運転できませんでしたよね。大人になって帰ってきて、丹波を見てどう感じましたか?
自宅付近は様変わりしましたね。昔はビッグもなかったし、丹波医療センターもありませんでした。いろんなところにいろんなものができていて、久しぶりに帰ってきた時に「あれ、こんな栄えてたっけ?」と思いました。
子どもの時、母とどこかに行くとなったらしまむらに行くくらいでした。帰ってきたらユニクロがあったり、今はもうなくなりましたけど。逆に昔はスポーツコーストというスポーツ用品店があって、小学生の時はそこに行くのが楽しみだったんですが、それがなくなっていました。変化がすごいです。個人的にミスタードーナツがなくなったのが一番ショックです(笑)
それは、とてもわかります(笑)
中学校の時も学校に行っているか、ヴィッセルの練習に行っているか、年輪の里にいるかで、丹波にいないも同然でしたので、全く丹波を見ていませんでしたね。どこに何があるかも分かっていませんでした。
懐かしいと感じる場所はありますか?
年輪の里とPSKですね。PSKには3歳からずっと行っていました。今でもサッカーの子どもたちを20人くらい連れていき、サッカーの練習をしてから水泳トレーニングをすることもあります。サッカー選手の時も、オフシーズンにPSKでジムやプールを使わせてもらっていました。
柏原中学校は懐かしく、母校という感じがしますが、新井小学校に行くと改修されていてかなり変わっているので正直、思い出と違い過ぎて母校じゃないような感覚がします。
中学校時代までのご友人で、今もつながっている人はいますか?
本当に昔からの友達が少ないんですよね。遊ぶ時間を犠牲にしていたので。強制的に遊ぶなと言われていたわけではなく、自分の中で「遊ばない」としていて、遊びをサッカーにしていました。学校が終わったら年輪の里に行って、暗くなるまでボールを蹴って、家に帰ってご飯を食べて寝るという生活でしたし。
それでも僕のサッカー人生においてのライバルと呼べる友達がいまして、彼がいたから僕も成長できたと実感してるんですが、その彼とは今でも連絡を取りますし、以前からゴールデンウィークやお盆に帰ってきた時は、2人でどこかに行ったりしてました。切磋琢磨できる、貴重な友達です。
丹波FCは今では小学生のスクールもされていますよね。
もともとは小学生クラスをするつもりはありませんでしたが「スクールをやってくれませんか」という要望があり、僕にできることは何でもやっていこうと思って始めました。
今は丹波校と丹波篠山校があって、中学生も合わせて全体で110人くらいです。元々中学生チームがなかったので、ニーズはあったんだと思います。
ちなみに丹波FCについて、地域のクラブとの違いはどういったところにありますか?
僕がやろうとしているのは、部活動の延長ではなく、本気でやりたい子たちを集めて、本当に上を目指すクラブチームです。純粋に「友達と楽しくサッカーしたい」といった気分で来ると、どうしても浮いてしまうというか、子どもたちの中でも空気感が違ってきます。
地域移行でクラブ化してくださっている方もいるので、来年以降は子どもたちがサッカーを楽しくやりたいか、本気でやりたいかで、分かれていくのかもしれません。ただ、いずれにせよ、お金も時間もかかります。「本当にサッカーをしたい!」という気持ちがないと、保護者の負担も増えますし、時間ももったいないです。なので、入会前に面談を行ったり、話し合いを行ったりしています。定期的に話して悩みや現状を話して、気持ちの面もサポートしています。
大事なことですね。
僕の中では、お金と時間がすごく気になります。僕自身、親にお金も時間もかけてもらっていて、子どもの頃は手を抜いたことはありません。姉や妹がいる中で、自分に時間とお金をかけてもらっていたので、100%以上でやらないと失礼だと思っていました。
丹波FCを立ち上げられてから、今はどういった感じですか?
今2年目で、かなり変わってきました。去年のクラブユースでは2学年上の大会にはなりますが、全敗でした。そこから1年間、意識のことを言い続けてトレーニングした結果、今回は4勝1敗で、トップリーグに所属している学年上のチームにも勝利することができました。グループリーグを突破して決勝トーナメントまで行けました。「意識を変えればこれだけ成長するんだ」と、僕自身も驚いています。
子どもたちがとにかく素直なんですよね。その素直さが、成長につながっていると思います。僕がどうこうではなく、話を聞いて「絶対やってやる」「負けたくない」と取り組む気持ちが出てきた結果ですね。
素敵です。今は丹波FCだけでなく、別のお仕事もされているんですよね?
今は丹波篠山市に農業の会社があって、そこで8時から17時まで働かせていただいて、その後にチームの活動に入っています。毎日ヘトヘトですが、子どもたちのやる気に支えてもらってます。
スポーツを通じて、子どもたちがまた帰ってきたくなる丹波をつくる
今後、丹波でどう暮らしていきたいですか?
今は丹波から出たいとは思っていません。ただ、ずっと実家に暮らすのも親に申し訳ない気持ちはあります。でも、やっぱり「親の顔を見られるのはすごく幸せなことだな」と思いますね。12年いなかったので。家に帰ったら、母と父、姉がいる。家族の仲がいいし、それがすごく安心できます。「家族といられることが、こんなにも幸せなんだ」と感じています。
もう少し、その幸せを少し噛みしめてから一人暮らしをしようかなと思っています。それでも、丹波から出るのではなく、丹波で一人暮らしをして、自分が見させてもらった子どもたちがどれだけ成長したかを見ながら、のんびりゆっくり過ごしたいです。
丹波は時間の流れがゆっくりしている感じがありますよね。
そう思っていたんですけど、丹波FCをはじめてからは一日24時間では足りません(笑)
結局、サッカーの子どもたちのことをずっと考えてしまうんですよね。「あいつら大丈夫かな」「明日はこんな練習をしよう」「こういうプランはどうか」と考えます。すごく充実していますし、子どもたちのおかげで楽しい毎日を過ごせています。たまに、しんどい、眠たいと思う時もありますけどね。
今後、仕事はどうしていく予定ですか?
いずれ会社にしたいと思っています。サッカー事業、スポーツ事業もしたいと思っていますし、いろいろしたいです。それを今、少しずつ明確にしているところです。子どもたちを対象にした事業と、おじいちゃんおばあちゃん、体を怪我した方などに向けた健康維持事業も進めたいです。知り合いの理学療法士がいるので、そういうこともできると思っています。
去年から保育園のサッカー教室もやっていまして、いずれチームの中学生の子らにも関わってもらって「子どもと触れ合うのってこんなに楽しいんや」「教えるのってこんなに難しいんだ」と感じてもらえると、みんなにとっていい時間になると思うので、実現させたいですね。
サッカーだけではなく、他のことも考えているんですね。
サッカーだけではなく、スポーツで就職先があるとか、いろんな形があればいいと思っています。今、英語スポーツ教室をやろうとしています。英語だけでスポーツを教えて、最後に日本語訳で同じ内容をやる。「こういう意味だったんだ」と英語の勉強にもなり、体も動かせるというものです。
丹波もグローバル化してきて、外国人の方も増えてきています。外国の方が住みにくい場所ではなく、丹波全体で受け入れて、全体で盛り上がっていければいいと思っています。農業をさせてもらっていますが、やはり外国の方の力が必要になってきていることも現実です。僕自身も、オランダ、ドイツ、韓国など海外遠征を経験して、本当に英語は大切だと感じていました。そのために英語をやりたいです。そうすれば、帰ってきやすくなったり、いろんな方が来てくれたりするのではないかと思っています。
いつか丹波FCに関わった子どもたちが、丹波に帰ってきてくれたらうれしいです。丹波を出て、ある程度サッカーをして、「丹波FCでコーチしたい」と思う子が出てきてくれたら大歓迎です。
何気にプロスポーツ選手に対しての取材は初めてで、「どんな人なのだろうか?」と思っていましたが、伊藤さんはとても物腰柔らかで、丁寧にお応えいただきました。この丹波という地域から、プロになるまでに実行されてきた約束や考え方、行動の数々は、どのエピソードを切り取っても感銘を受けるばかりで、インタビューが終わった頃には「勉強になりました!」と、沢山の学びを受けた感覚になりました。今後、丹波市内のサッカー環境がどう変化していくか、とても楽しみです。