「今、父と一緒に働きたい」〜丹波へUターンし、代々続く家業へ入社
田中凜さん
こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
丹波市氷上町で生まれ育ち、小学2年生から高校までバスケットボールに打ち込んでいたという田中凜さん。高校生活から親元を離れ、卒業後は但馬技術大学校で建築を学ばれました。
当初は家業を継ぐことまで考えていなかったという田中さんでしたが、在学中に祖父との別れを経験。「今、父と一緒に働いておかないと、いつまで一緒に働けるか分からない」との思いから、2024年3月に丹波市へUターンし、建築板金業を代々営む家業に入社されました。
地元に戻って3年目を迎える田中さんに、当時の想いと現状、これからのことについて詳しくお話を伺ってきました。
バスケ中心の日々から、家業の建築板金工への道へ
生まれ育ちはどこですか?
丹波市の氷上町です。地元の中央小学校、氷上中学校と進学して、その後の高校は神戸の神港学園高校へ進学しました。神戸の元町駅から、まっすぐ坂を上がった先にある高校です。
高校は何かの推薦とかですか?
バスケの推薦ですね。バスケとスポーツ関係の先生が中学校まで来てくださって、お話ししました。私の姉もバスケをしていて、県内のコーチとかによく知ってもらっていたんです。それで私は「その妹」という感じで、見つけてもらいました。
バスケはいつからやっていたんですか?
小学2年生です。人数合わせで誘われたのがきっかけでした。姉がもともと中央小のミニバスにいて、その時は中央小だけでは人数が少なかったんですよね。
なるほど。高校までは実家から通ってたんですか?
それが始発でも朝練に間に合わなかったので、あっちで下宿していました。神港学園はもともと男子校で、まだ女子用の施設は全然そろってなかったので、近くの大学生寮の空き部屋に住ませてもらっていました。最初は先輩と私の二人でしたが、普通の一人暮らしみたいな感じでした。
親元を離れたのが早かったんですね。高校在学中はどんな感じでしたか?
1年生の冬にコロナが始まって、1ヶ月くらい休校になりました。しばらく全員が揃わない状態で練習してましたね。2年生からはずっとマスクを付けて練習して、息苦しくて大変でした。
先輩たちは夏の大会がコロナでなくなったり、私たちも観客なし、応援なし、声だしなしという状態で大会に出たり、普通では考えられない環境でバスケしてました。制限なく練習できたのは1年生の間だけでしたね。最終的な結果としては、兵庫県でベスト8でした。
大変な時期だったんですね。卒業後はどうされたんですか?
父も行っていた、豊岡市にある但馬技術大学校へ行きました。職業訓練校なので、学歴には載らない学校なんですけど、2年間通いました。建築工学科へ行った理由は、2年間で2級建築士の受験資格がもらえるからでした。
大学校ではどんな勉強をされてたんですか?
2級建築士の資格取得に向けた勉強を中心に、インテリア系のことも学んでました。実技がすごく面白くて、建築といえば大工なので、のみを研ぐところから大工仕事を教えてもらいました。
1年生の冬に大工工事の検定があって、みんなで練習して姫路の会場へ受けに行きました。2年生の時には、数時間の間にどれだけきれいに作れたかで順位がつく競技会があって、私は兵庫県で3位になりました。まあ、8人中でしたけど(笑)
めっちゃ面白くて、楽しかったです。
充実されてたんですね。在学中は実家から通ってたんですか?
実家に戻らず、豊岡で下宿していました。色んなバイトもしたいと思っていたので、最初は個人でやってる料理屋さん、その後はブドウ農家さん、ドミノピザ、城崎のカニ料理屋さん。最後はバイトといえばコンビニなので、ファミリーマートでした(笑)
最終的に、大学校を出てから実家に帰って、家業のタナカ建築板金工業に就職して、今3年目です。20歳の時に家業へ合流しました。
祖父との別れをきっかけに、家業に入ることを決意
技術大学校へ行く時点で、実家に戻って家業に入ることは決めてたんですか?
当初は全然考えてなかったです。そもそも、高校までずっと勉強よりバスケに時間を費やしてきたのに、コロナで十分に注力できなかったこともあって、進路でバスケを使わないと決めた時に、「今までやってきた意味はなんだったんだろう」と悩んでいました。
「自分はこれから何がしたいのだろう」と考えていた時に、たまたま家業の話を聞いたんです。家業は中学生の頃に兄弟と一緒に楽しく手伝っていたんですが、継ぐとかまで考えていた訳でもなく、父が今何代目とか、全然深くまでは知らなくて、その時に「うちの家業って、割と歴史長いんやな」ということを知りました。
家業のことって、当たり前にあり過ぎて、子どもの頃に深く知る機会はなさそうですよね。
最初は「父が築いたものを継いでいけるなら、一からやるより家業やるのもいいかも」というくらいの、今考えれば全然、軽い気持ちの動機で但馬技術大学校に行くことにしました。
でも、大学校の1年生の時に、父方の祖父が亡くなったんです。親は子どもらが心配しないように、家のことを全部言ってくれなかったりするじゃないですか?実家を離れていると、家では大変なことが起こってるのに、「自分は何も知らん間に過ごしてるんやな」と思って。
うーん、どちらの気持ちもよくわかります。
「今、父と一緒に働いておかないと、いつまで一緒に働けるか分からない。私も年を取ってから外仕事を始めるのは、体力的に難しいのでは」と思いました。世の中の職人さんは70代でも働いている人もいますが、自分たちが何歳まで働けるかは分からない。
じゃあ、「若いうちに家で働こう」と、思ったんですよね。それと同時に、「せっかく家業があるのに、これまでの長い歴史や、どんな仕事をしているのかを説明できないのは寂しいな」と、強く思うようになりました。
「子どもは一回外に出てから実家に入るもんや」とよく言われますけど、戻ってきた時に、親と一緒に働けないなら、何も意味がない気がして。それを想像すると、すごく焦るというか、大切にしたいものを、大切にしたくなったんです。
その決断をした時、ご両親はどういう反応でしたか?
母はずっと「ほんまにいいん?助かるけど、いいん?」と言っていました(笑)
今思えば、もう少し深く考えた方がよかった気もしますが、卒業してすぐ家業に就職することを重く捉えてなかったですし、「別にあかんかったらまた他のところへ行けばいいやん」という感じでしたね。父は、今でも周りの方が「6代目やな」と言ってくださる時、私が答えに困っていたら父が先に濁してくれます。以前から「本当にどっちでもいいよ。好きなようにしたらいい」というスタンスと感じています。実際、兄も姉も、実家を出て全然違う仕事をしていますし。
他の人からすれば、親子で働いてたら「継ぐ」前提に見えますもんね。
現場でご一緒する他の職人さんでも、子どもが手伝うようになったという場面があります。私は他の会社で社会人としての経験していないので、「父に迷惑をかけていないかな」とか、「周りから子どもを連れて大変やなと思われていないかな」と考えてしまうこともあります。
それでも、先のことは誰にもわかりませんし、自分も何年も先のことを現時点で決めることは難しいですが、「今、出来るだけのことをやってみよう」と思って、丹波に帰ってきました。それが2024年3月ですね。
丹波での暮らしと建築板金工としての日々
5年ぶりに帰ってきた丹波市はどうでしたか?
最初は「丹波が好き」という気持ちが特別あった訳ではなく、ただ生まれ育った場所が丹波であっただけという感じでした。当たり前にあり過ぎて、深く考えようもないというか。将来のことを考えても、友達もどうせ出ていくし、丹波にいる理由はそんなにないかなと思ってました。
正直、久しぶりに帰ってきた丹波の日々は、そんなに面白くないなと思ってました。家族としか話さないみたいな、「自分は社会人じゃないかも」と思ったり。でも、社会人バスケに誘ってもらっていくようになってからは、いろんな人と話すようになって、いろんなところへ行けるようになって、世界が広がってきたような感覚が出てきました。
バスケをまた再開されたんですね。
一度見切りをつけた道だったので、なんとなく離れていましたが、改めて始めると以前とは何か違った感覚があります。クラブ活動の地域移行の流れを受けて、この9月から丹波市内のチームのスタッフに関わることになりました。中学生が集まって、人との出会いを力に変え、ともに成長できるチームを目指して活動しています。
いいですね。こっちに帰ってきたら、地域の人からあれこれ声かけられたりするのでは?
帰ってきて中学の頃の先生に出会った時に「あの時、頑張っとったことを覚えてる」と言ってもらったんです。こちらのことを細かく覚えてくれていたりすると、「自分もちゃんとここに存在しとったんやな」と感じて、やっぱりうれしかったですね。
豊岡にいた時は、クラスメイトが全員男子で、バイトもなかったら一日一言もしゃべらない日がありました。話せばしゃべってくれるんでしょうけど、用事もなくて。自分の存在をみんなが忘れていくみたいな、ちょっとブルーな気持ちになることもあったんで。
昔は免許もなかったら移動範囲も狭くて、どうしても触れられる世界が限られますよね。
本当にそうです。戻ってきた当初は、どこが何町かも分からなかったです。福知山までの行き方も分からなかったですけど、仕事で行くようになって、道や、ここが誰々の家ということを覚えるようになって、自分で行きたいところへ行けるようになって、開けてきた感じがあります。
ちなみに、車の免許はいつ取りました?
車は豊岡にいる時に取りました。あと、兄が大学時代に使っていたNinjaが倉庫に眠っていたので、「ついに取るか」となって、最近バイクの免許も取ったんです。この前、初めて高速に乗って豊岡までツーリングしてきました。父のTZRもあるので、そのうち乗り回してやろうと思っています(笑)
いいですね(笑)お休みの日は他に何されていますか?
昔から図書館が好きで、よく行きますね。小学生の頃は市内の図書館によく行ってて、1人最大10冊借りられるので、私と姉と母の3枚のカードで、上限まで借りていました。
最近は小説とか、人から勧められた本とか、色々読んでます。将来は小説家にもなりたいです(笑)
(笑)家業について、入社されてこの2年はどのようなことをされてたんですか?
建築板金工として、主に屋根や外壁、雨樋の現場工事の仕事をしています。また、見積りの際に必要な設計業務もあるので、教えてもらいながら図面を描いています。
技術大学校で学んだことは、活きている実感はありますか?
ありますね。例えば、学校ではJW-CADという無料のソフトを使っていましたが、うちで使っている有料のソフトはもっと便利で、使い方は全然違うんですけど、基礎が活きている実感があります。材料の名前とかもそうで、学んだおかげで右も左もわからないというスタートではなかったです。
建築板金工と言っても、色んな現場がありそうですね。
そうですね。去年は初めて、介護保険の工事で、床を畳からフローリングにする仕事をしました。大工さんに頼もうと思っていたんですけど、「忙しくて間に合わない」ということで、自分たちでやりました。
他にも、高所作業車を借りてきて、家の近くにある木の枝打ちを頼まれたり、伐採もしたり。人里離れた山奥にお住いの方の現場もあったりします。家に木が倒れかかった現場もあったんですが、どうしたらいいのかとあたふたした時もありました。現場仕事は毎回いろいろあって、ずっとおもしろいです。
頼もしいですね。お父さんの働きぶりを間近に触れて、何か感じることはありますか?
父を見ていて思うのは、どの施主の方とも、めちゃくちゃ仲がいいことです。特に年輩の人にすぐ気に入られるんですよね。そのことについて、父は笑った時に八重歯が見えるから、本人は「八重歯で口説いてる」と言ってますけど、「絶対ちゃうやろ」といつも言っています(笑)
(笑)以前からお父さんのことを存じてますが、同業者が手を引かれるような、難しい案件をこなしてらっしゃる印象があります。
そうですね。「誰々に来てもらったけど、結局直らなかったから」という仕事は多いです。
父の、職人としての技術の高さだったり、事業主としての考え方だったり、施主の方との関係作りだったり、まだまだ見習うべきことが沢山あって、追い付くとか、追い付けないとか、そういう次元にも全然達していないので、まだまだ日々勉強中という感じですね。
受け継がれてきた技を磨き、人とのつながりを育てていきたい
これからの展望を教えてください。まず仕事の方はどうでしょう?
まずは二級建築士の資格を取りたいです。いずれは一級建築士の資格も取りたいですね。
祖父もよく「水をどうにかしといたら、家はなんとでも持つ」と言ってましたが、建築板金は屋根を葺いたり、外壁や雨樋を整えたりと、家の一番外側の仕上げをする仕事なので、水がどう動くかを考えるのが大事で、水と闘う仕事です。すごく繊細ですし、力も要ります。
家のことは、施主の方にとって大きい買い物になることも多いので、「この人になら任せてもいい」「この人になら安心して預けられる」と思ってもらえるだけの信頼感と自信を、自分もしっかり身につけていきたいです。
父は、保育園の頃から現場に連れて行かれていたようで、祖父や曽祖父との色んな記憶があって、今、私がそれを聞けているのも一緒に働くようになってからなんですよね。なので、今のうちにいろんなことを学ばせてもらいます!
暮らしの面ではどうでしょう?
仕事柄、あちこちの現場へ伺う中で、農業のことを教えてもらったり、作られている野菜をたくさんもらうことがあったりします。
たまたまその辺を歩いていたら、田んぼにおった人が知り合いで、そこで1時間くらいしゃべるとか、知り合いのお店にご飯を食べに行くと、そこにもまた知り合いがいてっていう、そういう昔ながらの人と人とのお付き合いや関係性に憧れるところがあります。
今、そういうつながりをつくり始められているのかなと思うので、一つひとつを丁寧に、大事にしながら、これからもっと増やしたいです。
田中凜さんのお父さんとは以前からの知り合いで、凜さんのことはお話の中で伺っていました。ストレートで大学進学した人であれば新卒1年目の年頃ということですが、高校から実家を離れていたこともあってか、受け答えがとてもしっかりしていて、社会人数年目の人のような印象を受けました。 「家業」や「実家」、「地元」というのは、生まれた時から当たり前のように存在していて、その当たり前が揺らいでみたり、離れてみたり、失われてみたりと、何かきっかけがなければ、「有難さ」には気づきにくいもの。 「自由にしていい、好きにしていい」という環境は、裏を返せば、物事を自分で決めていく必要があります。田中さんが今後、どういう人生を歩んでいかれるか、非常に楽しみとなったインタビューでした。