そば打ちを極めに丹波市へ移住。都会に戻るはずが丹波市の人気店・そばんちで2代目に
宮内秀勝さん
2017年から丹波市が実施している「お試しテレワーク」企画で丹波市の関係人口として毎年移住者のインタビューに来てくれる、東京在住のライターFujico氏。
普段、東京に住んでいる彼女の目には、丹波市の人たちの暮らしはどんな風に映るのか。
この記事は、彼女が丹波市での滞在期間中に出会い、交流された方へのインタビューをまとめたものです。
丹波市に興味がある方はもちろんのこと、丹波市に住む方々も楽しく見ていただければと思います。
※この記事は、緊急事態宣言が解除された6月後半に行ったインタビューです。東京から丹波市に来る際にFujico氏には新型コロナウイルス感染の可能性がないかチェック頂き、十分な感染予防実施の上移動とインタビューを行って頂きました。
何がきっかけで移住を考え始めただろう。都会が嫌になったとき?生まれ故郷に帰りたいと感じたとき?十人十色の理由があると思うが、2011年3月11日の東日本大震災がきっかけで、手に職をつけることに踏み切った男性がいた。丹波蕎麦処 そばんちの2代目宮内秀勝さんだ。アパレル業界で華やかに働いていた宮内さんは、震災をきっかけに蕎麦屋を始めることにした。そして、蕎麦打ちの修行先としてたどり着いたのが、丹波市だったという。丹波市への移住は世の中が混乱し将来への不安を感じたことがきっかけとなった。なぜそこで丹波市に行き着いたのか。0から始めた蕎麦職人が、一人で店を切り盛りするようになるまでのお話とともにお伺いしていきたいと思う。
華やかな世界から一転。蕎麦屋になることを決意
大阪でアパレル関係の仕事に就いていた宮内さん。都会のど真ん中で仕事をしていた彼が人生の方向転換をし始めたのは、東日本大震災がきっかけだった。
本社が東京だったので、東京に行こうと思っていました。しかし、東日本大震災で都会がパニックになっているのを見て、本当にこの仕事を続けられるかと思ったときに、手に職をつけたいと思い始めました。
もともと料理をするのが好きだったという宮内さんは、何か飲食関係で手に職をつけたいと考えていた。
ラーメン屋とかカレー屋とかも考えたんですけど、ありふれていて面白くないなと思っていました。そんな時大阪で、ある蕎麦屋と出会ったんです。
ジブリの宮崎駿が作り出したかのような、不思議な雰囲気の蕎麦屋に魅了されたという宮内さん。その時から蕎麦に興味を持ち始めたという。
蕎麦職人になると親に話した時に、食べていけるわけないんだから、丹波市にある蕎麦屋「そばんち」に行けって言われたんです。
経験ゼロから始まった、丹波市での蕎麦打ち修行
この店に行け、と言われても…。と最初は聞く耳を持たなかった宮内さんだが、ちょうどその店をインターネットで探した時に、そばんちが発信しているブログをみつけた。
そばんちはもともと佐藤さんという方が始めたお店で。民家だった建物を自分で改修したり、佐藤さん自身の蕎麦修行を詳しく書いていたり。面白そうだなと思い始めました。
初期のブログを読んだら蕎麦屋を始められるんじゃないかと思うくらい、詳しく書かれていたというそばんち初代・佐藤さんのブログ。宮内さんは徐々に、そばんちが気になり始めた。
有名なグルメサイトの蕎麦屋ランキングで、全国10位近くにもなっていました。すごいお店なんだと興味を持ち、ここで修行させてもらうことにしました。
こうして2011年11月、アパレル業を退職した宮内さんは、蕎麦打ちの修行をしにそばんちのある丹波市へと向かった。
日中は蕎麦。夜はバイト。そして2代目になる
晴れて丹波市へと移住した宮内さん。しかし、最初は修行の身で給料はゼロ。日中は蕎麦の修行をして、夜はバイトという日々が続いた。移住するタイミングで結婚したこともあり、家計を支え合いながら修行を行ったという。
修行といっても、蕎麦打ちを教わったわけではありません。佐藤さんはもともと見て学べという人で、蕎麦打ちを観察するところから始まりました。そうしたら半年ほど経ったときに佐藤さんが、1ヶ月間丹波市を離れるから任した!と言ってきたんです。
可愛い子には旅をさせよ、というのが佐藤さんの方針か。たった半年で、一人で店を切り盛りしなくてはならない状況に追い込まれた宮内さん。しかしそのやり方が彼には合っていたのか、任されたことでとても成長することができたという。
給料も歩合制だから自分で頑張らないと稼ぎにならないので、良いプレッシャーでした。そのおかげで、代替わりするときも割とスムーズでしたね。
こうして、修行を始めてからちょうど6年後の2017年11月。佐藤さんから宮内さんへ代替わりした。
完全に代替わりするまでに一人で任せてもらえる回数が多かったからこそ、より美味しくなるにはどうすればいいのかを、自ら考えられるようになったと思います。
宮内さんが切り盛りするそばんちでは、佐藤さんの代から人気だったメニューに加え、宮内さんが開発したメニューも楽しむことができる。
メニュー開発は遊びの延長で、色々考えて試すのが楽しいんですよ。
仕事という概念にとらわれず楽しみながらやるという考え方も、佐藤さんから宮内さんへ引き継がれているように感じた。
家族5人で丹波暮らし。4回の引っ越しを経て家を購入
移住した当時は奥さんとの2人暮らしだったが、今では娘を3人授かり5人で暮らしている宮内さん。アパート、団地、市の定住促進住宅に住んだ後、ついに家を購入した。
そばんちの近くに家を購入し、やっと落ち着いて生活ができています。近所の人も良い人たちばかり。子育てに良い環境だと思います。
宮内さんが家を購入した市島町梶原は、もともと子どもが多い地域。子どもを通して今まで以上に地域との繋がりができて、面白くなってきているという。
正直最初は、修行が終わったら都会で店を出そうと思っていたんですけどね。家まで購入して、根付いてきたな〜と感じます。
商工会の青年部に参加するなど、さまざまな地元の集まりに積極的に参加している宮内さん。移住者は移住者同士で集まりやすいのが一般的だが、地元の人と関わるのはとても大事だという。
地域を盛り上げる取り組みにも積極的に参加しています。地元の人と話していると、そこの地域に根付いているからこそ聞くことができる話や、今までにない人との関係性もできて面白いですよ。
地元に馴染めば馴染むほど面白い。それが移住の醍醐味だと話してくれた宮内さん。移住者、というよりもすでに丹波市の人だなと感じる程、深い地元との繋がりが感じられた。
やりたいことはやっていく。それが宮内さんのエネルギー源
修行を終え2代目となった今も、どんどんと新しいことにチャレンジしていく宮内さん。今は、店の目の前にある田んぼでそばを栽培しているそうだ。
米も作ろうと思っています。米作りに慣れたら酒米作ってお酒も作りたいです。山名酒造の最後の丹波杜氏と言われる青木さんの下で働いてみたいですね!
やりたい!楽しい!と思うものには妥協をしない。そのエネルギーがあったからこそ、そばんちの2代目として選ばれたのであろう。
海外で蕎麦屋もやってみたいですね。子育てが落ち着いた後に行けたら良いなと思っています。
意欲的にさまざまな夢を叶えている一方で、丹波市に越してきたことでより健康的な暮らしに変わったという。太陽とともに動く生活。みんなが田舎暮らしで憧れる生活リズムを手に入れ、さらに壮大な夢をも描く宮内さんは、かっこよかった。
今はパティシエの奥さんも一緒に店を切り盛りしていて、新しいデザートメニューを出しています。奥さんもさまざまな店から、うちでお菓子を出さないかと声をかけていただいて。これからも楽しくなりそうですよ。
夫婦揃って丹波市で活躍している宮内家。この活躍は粛々と修行を積み、地元に積極的に馴染んでいかれたからこそ起きている出来事であろう。
移住って力んじゃう人もいると思いますが、ダメなら違うところを見つければいいと思うんです。僕は都会に戻ろうと思っていたけど結果、丹波市に居着いただけで。ダメだったら帰ればいいや、くらいの気持ちがちょうどいいかもしれないですよ。
現に自分の奥さんも「将来は地元の富山に戻りたいな〜」と言ってますしね、と笑いながら宮内さんは言った。一つのきっかけにより縁のなかった土地にたどり着いて、そこに根を張る。流れるように、しかし確実に歩む宮内さんが作る蕎麦が、丹波市から生まれた蕎麦が、世界中の人に食べられるような蕎麦になることを、私は心待ちにしている。
「移住者ばっかりで集まるだけでなく、普通に地元の人と一緒にいるのも楽しいですよ。」宮内さんがそうお話されていて、長く根付いて暮らしを楽しむ方はそういう方が多いな、と思いました。子育てをしていて、日々の暮らしをしていてご近所さんとの繋がりは本当に安心できる心の繋がりだと感じます。夢がたくさんある宮内さんですが、そんな居心地の良い環境を自分で整えていける意思のある方なんだなとお話を伺うたびに思います。とても美味しい宮内さんのお蕎麦、ぜひ一度食べに来てみてくださいね。