経験ゼロから始めた農業。紆余曲折した人生でたどり着いた丹波市
松本佳則さん
2017年から丹波市が実施している「お試しテレワーク」企画で丹波市の関係人口として毎年移住者のインタビューに来てくれる、東京在住のライターFujico氏。
普段、東京に住んでいる彼女の目には、丹波市の人たちの暮らしはどんな風に映るのか。
この記事は、彼女が丹波市での滞在期間中に出会い、交流された方へのインタビューをまとめたものです。
丹波市に興味がある方はもちろんのこと、丹波市に住む方々も楽しく見ていただければと思います。
※この記事は、緊急事態宣言が解除された6月後半に行ったインタビューです。東京から丹波市に来る際にFujico氏には新型コロナウイルス感染の可能性がないかチェック頂き、十分な感染予防実施の上移動とインタビューを行って頂きました。
田舎暮らしをしながら農家という生活に、憧れを持つ人もいるのではないか。しかし、農業だけで生きていけるのか、地方での農家生活は本当に上手くいくのか。不安に思うこともあるだろう。
今回インタビューをした松本佳則さんは、丹波市で「稲畑松之助」という農名のもと、農家として暮らしている。農薬や化学肥料などを一切使わず、また在来種や固定種という、種を取ることのできる品種を主に栽培する松本さんは、紆余曲折した人生を過ごしたからこそ、この農業スタイルにたどり着いた。松本さんがどうして丹波市で農家になると決めたのか。丹波市での暮らし、そして農家としての暮らしを赤裸々に教えてもらった。
役者を目指し東京へ。薬剤師を目指す人生から大きく方向転換した時
松本さんが丹波市にたどり着くまでの道は、高校生の時に始まった。兵庫県加古川市で育った松本さん。もともと理系で薬学部に行き薬剤師になるつもりだったが、高校2年生の時、ふとタレント養成所のオーディションを受けた。
幼稚園のお遊戯会で、芝居が上手だと褒められた時、芝居で人を喜ばせるのって楽しいと思った記憶があり、タレント養成所のオーディションを受けました。何か自己表現がしたかったんです。そこから薬剤師ではなく、役者を目指すことにしました。
高校卒業後は東京の専門学校で2年間、役者の勉強をした。卒業後、一年半ほど特定の劇団には入らずフリーで活動しどんどん役を演じる機会を得たが、あるきっかけで大阪へ帰ることを決意した。それは、高校の友人が交通事故で亡くなったことだった。
初めて身近な人が亡くなったことで、人生ってすぐに終わってしまうんだなと思いました。そんな中、自分は親元を離れわがままをさせてもらっている。何かあった時に、親の近くにいなくてもいいのか?と思うようになったんです。
友人の死をきっかけに大阪へ戻り、ある劇団に入団した松本さん。しかし、ここでの役者人生はなかなかうまくは行かなかった。劇団に入り直すというのは、また初心者からやり直すということ。今まで東京で積み重ねてきた演技方法とは違うものを求められ、役もうまく与えられなかった。アルバイトをしながら役者を続けていたが、当時アルバイト先で知り合いお付き合いをしていた女性と結婚したいと思い、役者人生に終止符を打つ決意をした。
結婚のため、役者を辞め転職。しかし婚約者が病気で意識不明に
大阪に戻り、新しい劇団に入り直し3年ほど。役者人生としては5年になろうとしていたところで、結婚を決意した松本さん。彼女と一緒になろうと思い、役者という道を諦め、某有名タイヤメーカーの営業に転職した。しかし転職して結婚かというタイミングで、突然暗闇が訪れた。
私が24歳の時、婚約者が肺炎を起こし意識不明の重体になってしまったんです。一度は意識を取り戻したのですが、結局助かりませんでした。
最愛の人が亡くなってしまった。彼女との人生のために転職をし、これから二人で人生を歩もうとした途端その道が途絶え、松本さんは絶望に打ちひしがれた。自分の人生って何なのだろう…。そんな思いで立ち直ることができず、松本さんは転職先を退職した。
会社を辞め、それから27歳まではアルバイトをしていました。自分が何のために働くのか分からず、ふわふわ生きていましたね。
人に幸せを与えられる仕事につきたいと思い結婚式場で働いてみるなど、自分の道を模索していた松本さん。そんな中、彼にとって唯一の楽しみだったのが、ロードバイクだった。
再度前進。人生のターニングポイントは、ロードバイク
やりたいことやこの先の生き方を模索している間もロードバイクが趣味で、自転車屋によく通ってました。
婚約者が亡くなり絶望感に打ちひしがれつつも、日々の唯一の楽しみとして行なっていたロードバイク。自転車屋に行っては自転車を改良したり、仲良くなった店のオーナーと一緒に走りに行ったりを繰り返した。そして松本さんが27歳の時、オーナーから自転車屋を引継いでくれないかという誘いを受けた。
自転車屋のオーナーが、ある会社にヘッドハンティングをされたんです。そして店をどうするかとなった時に、私に声がかかりました。自転車を改良することも全くできなかったので不安もありましたが、何よりこのお店がなくなるのが悲しいと思い、店を継ぐことにしました。
お店の経営も自転車の改良も、全くやったことがなくゼロからのスタート。わけがわからないまま始めた松本さんは、オーナーから自転車のことを学びつつ、どうにか店を切り盛りした。
自分の稼ぎは自分で得ないといけないので、必死に店づくりを行いましたね。最終的には自転車を月5~10台は売れるようになり、人を雇えて少し黒字化になるほどまで成長させました。しかし、ここにずっといても元のオーナーの二番煎じだなと感じていたのです。
自分らしい生き方を考えた結論。祖父母が生きた丹波市に移住する
元々、以前のオーナーへの憧れもあり、自転車屋の運営を引き受けた松本さん。気さくで人当たりも良く「こういう風にならなければ…」と無意識に思い、店づくりも彼を真似して行なっていたことに気づいたという。
このままやり続けたら、売り上げは悪くないし店は潰れない。でも芝居の時に行なっていた自分らしい表現はできないと思ったんです。29歳で店を辞めることにしました。
自分らしい生き方、自分でしかできない表現とは。自転車屋を辞め、改めて振り出しに戻った松本さん。そんな時、丹波市にある祖父母の家を今後どうするか、家族会議が行われた。墓もご先祖もいる丹波市の家には、祖父母が亡くなってから人が住んでおらず、両親も兄も丹波市に戻るつもりはなかった。
私が丹波市に行って、何かできるという訳ではありませんでした。ただ、いるだけでもお墓やご先祖を守ることくらいはできるかなと思い、移住をしようと思いました。
まるで思い立ったかのように移住した松本さん。「この土地で何か困っていることを、代わりにやってみよう」そんな思いで丹波市に移住し、たどり着いたのが農業だった。
農業で独立。固定種・在来種を使い、種を後世に繋げる
農業をするならば畑の延長線上ではなく、独立して経営者になろうと決意した松本さん。しかし、農業に関して何の知識もなかった。そこで農業の勉強をしようと思い、丹波篠山市の「みたけの里舎」という農業生産法人で修行を兼ね働くことになった。
農家が加工まで行う6次産業に積極的な場所が良いと思っていたところみたけの里舎に出会い、運よく働かせてもらえました。
独立をするなら加工までやりたいという思いのもと、みたけの里舎でしっかりと農業のいろはを学び、2016年ついに農家として独立を果たした。
独立する際に目標としていたのは、祖父でした。祖父はアルミの加工場を運営し、ここ丹波市に雇用を生みました。私も農業で雇用を作れるようにしたいと思っています。
ただ作物を作れば良いというスタイルではなく、有機肥料を使い、種を取って来年また植える、固定種・在来種にこだわり作っている松本さん。トマト、万願寺の唐辛子、水ナス、丹波の黒豆、山形の茶豆、青森の毛豆など、多くの野菜を作っている。
ここから100年、同じ種が今と同じように食べられるように初代・稲畑松之助と名乗り、「農」への思いや、やり方を次世代へ繋げていくという。
今の時代、大量生産のため種を取らずに作物を作る方法が主流です。しかし私は、自分が大事にする種や価値観を共有していきたい。種を繋げることは、今まで私たちに繋いできてくれた「農」を、次の世代に繋げることです。人間が成し遂げてきた成果を、次の世代へ繋げられるよう、種を繋いでいきたいと思います。
大切な人の死を体験し、自分が生きる意味や目的を見失ったところから自分らしく生きる方法を見つけ出した松本さん。農業を始めたことで、自己肯定感が上がったという。
丹波市と北海道の別居婚生活。お互い納得できる形を、二人で作り上げていく
実は私、丹波市に移住した後、結婚したんです。奥さんは今北海道にいます。それぞれのやりたいことを尊重し、別々に暮らしながら結婚生活をすることにしました。
島根県で開催された生涯学習についての勉強会に参加した松本さん。生涯学習とは人間は生涯を通じて学び続けることができる、学び続ける権利を有してるという考え方。農業を通しこの考え方に共感しイベントに参加したという。その勉強会にスタッフとして関わっていた女性と丹波市で教育に関する取り組みを起こそうという機会で再び会う事になった。そこで意気投合し、結婚を前提に付き合うことになったという。しかし、仕事上どちらかがすぐ移住するということは、難しかった。
彼女は関東で仕事をしていました。私が関東で農業をする方法があることを伝えましたが、彼女からそれは違うと言ってくれました。丹波市で農業をすることに意味があると。なので、別居前提で結婚することにしました。
近くに住んでいる相手以外と結婚する場合、どちらかが移住を強いられる場合が多く、それで悩む夫婦は多くいる。松本さんは二人で議論した結果、お互いが情熱をかける仕事を尊重し合い別居婚から始めた。それから一度、奥さんが関西に異動できる機会があり3年間一緒に過ごしたが、再び関東に異動となり職を変え今は北海道にいる。まだ別居しているとのことだ。
今後、どのタイミングで一緒に住むなどは決まっていません。離れて暮らしている今は、月に1~2回会えるかどうか。しかし、お互いを尊重し合い、私たちらしい夫婦生活ができていると思います。
田舎暮らしのめんどくささも、丸ごと愛して
移住は楽しいばかりでは決してありません。例えば農業を始めるのも、自分の意思だけではなく水を使うことに許可がいるなど、地域と一緒に農業をする感覚があります。また、私は孫ターンなので両親が丹波市から出て行った身なのですが、知らない方にお前は逃げるなよ!と言われたことも(笑)冠婚葬祭も地域ぐるみですし、都会とは全く違います。
人と関わらずに生活を送ることができる都会とは全く違い、全てに人が関わってくる田舎暮らし。ここで住んでいる以上、その地域の人と繋がり、一緒に暮らしていく感覚が大事だと松本さんはいう。若いうちは地域のお手伝いも多いので、そういうことも楽しめる人は田舎での暮らしが合っているのでは、とのことだ。
農業も、災害で作物が全てなくなってしまったこともありました。つまり収入になりません。また販売も難しい。私が作る作物は有機栽培に近いものなので、普通のスーパーに並ぶものではありません。自然派の野菜を好む業者に卸しています。
移住は簡単ではない、農業も簡単ではないが、圧倒的に丹波市に移住してよかったという松本さん。もう都会には戻りたくないとも言っていた。
確かに都会は何不自由なく生きることができる。わずらわしいと思うこともないかもしれません。しかし、丹波市はとても豊かです。朝起きたらウグイスが鳴いていたり、四季を感じながら自然と共に生きたり。人間らしい生き方をすることができます。
地域と一緒に作り上げる農業、そして暮らし。簡単には行かないことばかりだが、丹波市にきて農業を始めたからこそ、自分らしい道を開くことができた松本さん。紆余曲折の人生だが、諦めずに模索したからこそ丹波市での暮らしを堪能しているのだろう。
今後は、農業で人を雇用できるくらい広げたり、都会の人が農業と地域の暮らしを知る機会を得られる学びの場を作ったりしたいという。「稲畑松之助」という文字に、家紋、そして生き生きとした野菜たちは、今後多くの人に愛される野菜となるであろう。「農」を通した松本さんのさらなる活躍が楽しみである。
コロナの影響もあって、近年地方への移住を考える人が増加し、TurnWaveの方にもたくさんの相談者の方が来られるようになりました。そんな中でも丹波市内の「移住者」と呼ばれる中では歴が長く、古株の松本さん。ぶれずに信念を持って積み上げていく姿が印象的な方で、とても農業に向いておられるように感じます。今後も実直に地域の方とも交流を図りつつ、松本さんらしい暮らしを実現して行かれるのではないかと思いました。