【起業インタビュー】Pierre et Okustat(ピエール・エ・オクスタット)

三柳竜子さん、ピエール・ジンマーマンさん夫婦~カナダから丹波へ。クオリティを追求するジュエリーショップ~

移住前はどんな暮らしをされてましたか?

(竜子さん)
直前はカナダのケベック州で、ピエールは父親が経営しているジュエリー店の三代目として働いてました。彼は学校を出てから製作、販売、会計等を全て、片腕として24年ずっと。

元々私は京都出身で、大阪外大でフランス語を学んで、語学とジュエリーを勉強したくてフランスへ留学しました。留学中、たまたまインターネットでピエールの父親の記事を見つけたんですね。技術的な話を沢山されていたので、連絡をとってみて。やっている技術に興味があると伝えると、『一回来てみたら?』とカジュアルに言われまして(笑)それで語学学校が終わった時点の夏休みにカナダへ行きました。

実際に行ってみると『こんな風に全部自分で作れるんだ!』『これ以外に何も知りたくないわ!』と製法に感動して。即座にワーキングホリデーのビザをとって、2009年にカナダへ引っ越しました。その後、ピエールとお付き合いすることになり、結果的にカナダに長くいることになりました。

丹波市に移住するまでの13年間は、自分は他でバイトしながら勉強させてもらっていた感じでした。素材の調達や買い付けとか。最終的には研修生枠から嫁枠になり、逆に厳しくなったんですが(笑)でも、そのおかげでとても勉強になりましたね。

移住した経緯を教えてください

(竜子さん)
移住のきっかけはコロナ禍でした。カナダでは国境が閉鎖、ロックダウンで4か月程営業できない状態になったりして、『クオリティを追求して頑張ってきたのにこの仕打ちかあ』と感じてしまう状態だったんですね。カナダで続ける意味が見えなくなっていたんです。

2020年に友人が住む福岡県の田舎へ遊びに行った時、そこでの田舎暮らしっぷりがとても幸せそうだったんですね。コロナ禍と街中とのコントラストが強すぎて、率直に羨ましいなと感じました。

それで『日本に住むのもありかな』と考えるようになって、ピエールも経営の自信がついてましたし、チャレンジしてみようかという話になり、調べ始めました。最初は、「京都の実家から車で1,2時間でいけてのんびり暮らせそうなところ」と曖昧なところから探しました。インターネットで毎日物件探すのが日課になってましたね。いいなと思う物件が出てきたらGooglemapでその周辺をひたすら散歩してました(笑)

賃貸でアトリエができそうな物件を探してたんですが、なかなかなくて。あちこちの移住相談員さんとzoomしたりする中で、最後が丹波市で。普段日本人と接点がないので毎回変に緊張するんですが、相談員さんが最初から『Hi,Tatsuko!』と言ってくれてリラックスできたのを覚えています。

ちょうどいい物件を紹介してもらい、『ここだ!飛びつくぞ!』と決めました。でも、日本のビザは配偶者以外は難しい感じになっていて、カナダでは結婚してもしてなくても税制が変わらないので、一生一緒に居るつもりだったんですが結婚はしてなかったんですね。それですぐにケベックで結婚してビザを取って、2022年6月1日に移住しました。

(ピエールさん)
以前から里帰り含め日本には数回きていて、日本の人を敬う文化とか、工芸の歴史が長く、お寺に観光へ行っても巨匠の技が随所にちりばめられていて、ものづくりに対する日本の姿勢、文化をリスペクトしてたからすごく楽しみでした。

父のお店や仕事の仕方は大好きだったけど、ケベックでの未来が必ずしもポジティブな展望ではなかったんです。文化的に、工芸に対するリスペクトが根付いてなくて。日本は人と工芸の結びつきがいたるところで見えて、ものづくりの未来は日本の方が具体的に感じられましたね。

以前住んでいた場所と、仕事や生活での違いは何かありますか?

(ピエールさん)
“日本とカナダ”というよりは“都会と田舎”という比較になるけど、ケベックのお店は京都でいえば清水寺みたいな場所にあって、人通りも多く、接客ばかりになりがちで商品を作る時間があまり持てなかったんです。今は人通りが少ないのが逆に、作る時間を沢山もてるのがポジティブに感じています。

(竜子さん)
いざアトリエだけでなく店舗もという機会をいただいてみて思うのが、『店舗なかったらどうしてたんやろ?』って思うんですよね。ふらっと来て私たちのことを見つけてくださって、それで製法やこだわりに感動して買ってもらったり。それのおかげでなんとか良いスタートが切れてるというのが大きくて。店舗があって本当によかったと思ってます。

(ピエールさん)
店舗大事!

(竜子さん)
私個人としてはアルバイトしながらアトリエっていう生活で、今から思うと気楽でしたね。収入面が安定されつつ、作りたいものだけ作り、勉強したいことを勉強してたらいいという。今は事業主なのでこれで二人分稼がないといけないっていう圧が結構な圧で。

主人は家族経営で、収入が「ある時はある。ない時はない。」っていうコントラストに慣れているんですけど、私は急にこの状態になってしまうと、数字が弱いのも相まって、『どうしよう、これで大丈夫なんだろうか』っていう月もあったりして。私はあたふたしますけど、主人はそれが普通。『そういう職業ですよ』っていうのが身についてるので、精神面でかなり助けてもらってます。

丹波市での暮らしはいかがですか?

(竜子さん)
丹波市はポッカポカですね、暖かいですよ。でも、家の中はケベックより寒いです(笑)
ケベックではセントラルヒーティングで20度程に保たれるので、半袖短パンで過ごせたりするくらいなんです。

丹波市に来てからよく散歩していて、以前ケベックでも散歩してたんですが冬が寒すぎて。マイナス25度とかなので、15分以上外にいると危なかったり。綺麗ですけどね、凍てついた風景も。

(ピエールさん)
散歩のときの景色がきれいですね。一年間ほぼ毎日歩いてても飽きない。
山、川、鳥、たんぼ、家。ぜんぶキレイ。

なぜジュエリー業を始めようと思ったんでしょう?

(竜子さん)
父の友人でジュエリー作家さんがいて、高校の時にその方のアトリエに伺った際に興味をもって、それから教えてもらうようになりました。高校生の時から趣味はジュエリー作りだったんです。部活もせずに、時間があればジュエリーを作ってました。

大人からは前提として『それでは食べていけない』と言われてました。語学が得意だったので、食べていくにはそっちを伸ばしていくしかないと先生や親、親戚からもガイダンスされていたので、外国語大学にいって、保険的な気持ちでフランス語を勉強して。

実際フランスにも留学しましたけど、それで食える人は英語、日本語、フランス語が全て流暢じゃないといけない。パリはフランス人と日本人のハーフが沢山居て、彼らの流暢さに追いつけないという現実を目の当たりにしつつ、家では虎視眈々とチャンスを窺いながらジュエリーをやっているみたいな生活でした。

(ピエールさん)
学校では文学を専攻してやってましたが、それを自分の職業に繋げるみたいなことはイメージがつかず、どうしようか悩んでいた状況で、父から『うちでジュエリーやってみたら?』と言われ、じゃあやってみようかなというスタートでした。

物心ついた頃から店を継ぐ前提でやってきて、兄もいますがジュエリーが好きという訳ではなかったので、父も自分が継ぐ前提でした。もうそれは誰も疑う余地がない前提でしたね。

丹波市で起業する際に懸念していたことはありますか?

(竜子さん)
こちらでジュエリーが売れるかどうかが一番心配でしたね。元のZimmermann Québecは向こうでは有名でしたが、日本では無名。ここで三代目といってもあてにならないので。

(ピエールさん)
本来なら三代目として、祖父や父のお客さんを手持ち札としてもらうのが世代事業のメリットでしょうが、それを受けられない不安はありました。西洋に比べて日本はジュエリーに歴史、馴染みが浅いですし、「“手作り”で、“クオリティを売る”というスタイルが通用するのか。しかも田舎で」というのが心配でしたね。

当初の資金繰りはどうされましたか?

(竜子さん)
元々趣味がずっとジュエリーで、基本的な道具は手元にあったので、ほとんど引越代くらいでしたね。一番大事な道具を運ぶのに40万程かかると言われ、それならもう全部もっていこうとなって。それでも結局200万程かかりました。細かい部品は丹波市に来てから、商工会に色々紹介してもらってなんとかできました。これがないと作れないっていう部品を、パーフェクトに作ってもらえて心強かったです。

作業台とかはピエールの父が旅立ち祝いとして用意してくれたんですが、『妥協せずに、ちゃんと作りや』というメッセージが引き出しの裏とかあちこちに仕掛けられているんですよ。お義父さんからは「三代目としてお店を継いでくれなくても、ジンマーマンが愛する技術が日本にまで伝わって継承されていくことでよしとする」という承諾を得ております。

起業する際、具体的な手続きについては誰かに相談されましたか?

(竜子さん)
商工会ですね。ビザにもいるかもということで割と真面目につくった事業計画書を見てもらったりとか。およそビジネスをどうしていくかはピエールの頭にしっかりありましたが、それでも家賃の補助とか、支援してくださったのは助かりました。

開業されてからここまで、ビジネスの状況はいかがですか?

(ピエールさん)
大事にしている“クオリティ”をお客さんに伝えるところから始めて。それに対し、お客さんのリアクションが想像してたよりも良くて。反応はいいだろうなと思ってたけど、それを上回っていいですね。

ケベックではクオリティについて話してもなかなか伝わらなかったのに対して、ここではあっさりそこをわかってもらえる。「他にもモノづくりをしておられる人が丹波市にいて、その人たちがすでにクオリティというものを啓蒙してきた地域にきた」という感覚を受けます。ゼロからのスタートじゃない感覚が嬉しかったですね。

起業してよかったこと、逆によくなかったことはありますか?

(竜子さん)
組織での仕事は食わず嫌いなんですが、自分としては大きなシステムの中で雇われるというのは想像つかないですね。自分が自分のボスで、その分プレッシャーもあるけど、それだけの自由もあるから。全てが自分の手の内にあるっていうことならではの楽しさがあるかなと思います。

(ピエールさん)
ケベックでも自分が自分のボスでしたし、誰かの下で働くのはすごいしんどいと思う。誰かの下は僕も無理ですね。

将来の展望はどのようにお考えですか?

(竜子さん)
大成功して大金持ちになりたいとは全く思わないんです。ただ、この生活を死ぬまで続けていきたい。その為にはそれだけのお客さんが必要で、もうちょっとお客さんに知ってもらいたいですね。一生に一個だけ、買ってくれるのでいい。そのジュエリーがわたしたちのものだったらなお幸せ。

(ピエールさん)
「高いお金を出さないとクオリティに手が届かない」というのは間違いで。1万円以下でも、予算内で最高のクオリティは目指せます。どの人にも、“最高のクオリティをお買い物していただける”ことを念頭に作っていて、そういうお店にしたいです。

それと、この地域でもプラスになる存在でありたいですね。事業したい人が町に来て、何件かやってる先を見て、自分もやってみたいと思ってもらってという循環の中に居たいです。クオリティにこだわりをもったクリエイターが揃うと、観光に来る人も飲食店でご飯食べたいとか、どこかで泊まりたいとなるので、活性化の一助になれる気もします。

起業を考えている人へのアドバイスをお願いします

(ピエールさん)
最初は作っても売れないという不安定な状況になって怖いけど、お客さんにとっては作れば作るほど選択肢が増えて、『どれか一つ買って帰ろうかな』と思っていただきやすくなって、売れたりするもので。

3個だけ並んでても売れないし、何作ってもその3個しか売れないんだとしても、200個あるうちの3個だから売れる側面もある。『これ全部私が作りました』っていうバラエティがないと、最初ちょっと事業としては成り立たない。まずは生産性を高めて、高く売るのは怖いかもしれないけど、最初から適正価格を考えるのは大事です。

辛い時もあるけど、クオリティを意識して、必ずずっと続ける。「無理かもダメかも」って思う時は必ずくるけど、作る手をとめてはいけないです。数を作ればいいという話ではなく、一個一個ちゃんと作る前提で。量を作るのが目的なら、手作りである必要がないので。

(竜子さん)
カナダのジンマーマンケベックも健在で、たまに「買収したい」というオファーがあったりするんですが、彼の家族もみんな『クオリティが伴わないくらいなら、なくなってしまった方がいい。いくらお金を積まれてもそれはノー』です。プライドですね。「全ての生あるものはいつかすべて滅びる」という哲学で、企業も一緒かなと思います。

ジュエリーだけに関わらず、大量消費のスタイルも人口が減ってきて変わっていくだろうし、作った分だけ売れるみたいな時代じゃなくなっていくだろうから、買うっていう経験自体が大切になってる時代かなと。クオリティを見直す時期なんだと感じますね。

※この記事は2023年9月21日に取材した情報をもとに作成いたしました。

 

事業者名  Pierre et Okustat(ピエール・エ・オクスタット)
代表者名  三柳竜子
 669-3309
所在地  兵庫県丹波市柏原町柏原28-1
instagram  https://www.instagram.com/pierre_okustat/
Webサイト  https://pierre-okustat.com/