奥さんの希望で丹波市へIターン~地方から地方へ移住した社会教育士~
蔦木伸一郎さん
こちらの記事は自身も移住者である丹波市移住定住相談窓口メンバーが行なった先輩移住者のインタビューです。令和5年度からは、インタビューさせていただいた方の人柄を知っていただくため、受け答えをなるべく自然のまま掲載しています。
小中学校の同級生が10名未満という小規模学校がある山梨県の農村地域で生まれ育ち、母校の廃校をきっかけに地方に関心を持つようになったという蔦木さん。大学卒業後は愛知県⇒山梨県⇒広島県と生活の地を変え、結婚を機に岡山県西粟倉村へ。
丹波市内で初めての社会教育士となった蔦木さん。ここまで様々なご縁があり丹波市へ移住することになったその経緯を、詳しくインタビューしてきました。
生涯学習の可能性に触れた縁で西粟倉村へ
蔦木さんのご出身はどちらですか?
山梨県大月市です。農村地域の生まれで、小中学校の同級生は10名未満でした。大月市内の高校を卒業した後、短期大学に通い、3年次編入で都内の大学に進学し、その後大学院まで通いました。短大2年、大学2年、大学院2年と、それぞれで卒業単位が必要だったので、他の学生よりも学業に追われてましたね。
なるほど。その短大ってどういうところだったんでしょう?
学科は経済科だったんですけど、3年次編入学に力を入れていることで有名なところでした。全国から編入学を目的に短大に進学する人も多く、就職するよりも大学へ編入学することを目指す人が多いところでしたね。
そういうところがあるんですね。院を卒業された後は?
大学院を卒業後は就職して、配属先の名古屋で勤務してました。就職先は持続可能社会の実現を目指し、主に資源リサイクル事業を取り組んでいるアミタ株式会社という会社でした。中山間地域や農村地域の課題解決に取り組む、地域プロデュース事業もやってたのが決め手でした。
学生の頃から中山間地域や農村地域の課題に興味があって、それでアミタの事を知ってたんですね。森林管理と酪農を合わせた森林酪農をやっていたり、林業が基幹産業の西粟倉村に拠点を持っていたり、面白いなと思って。入社したのが2010年で、当時リサイクルやCSR等、企業も自社の利益だけじゃなく社会的責任を果たそうといった機運が高まってた時期でした。
2010年ということは、世の中が地方創生と言い始める前ですね。何がきっかけで地域課題等に興味を持たれていたんでしょう?
高校生と大学生の頃に、自分の通っていた小学校と中学校がなくなるという経験をしたのがとても大きくて、それで地域の課題に関心を持ったんです。大月市は東京まで1時間程度で行くことができるのですが、進学や就職で東京に出ていってしまうと、若者はなかなか戻らないんですよね。
それは丹波市における京阪神みたいな感じですね。
自分でも地元を盛り上げる活動がしたいと思ってたこともあって、大学院時代には、大学院とは別に「政策学校一新塾」に通いながら、社会人と一緒に社会課題に解決に向けて学んでいた時期がありました。
その学校では、座学で学ぶと同時に、実際にプロジェクトを立ち上げて塾生と共に実践するというカリキュラムでした。そこで、地元の廃校となった校舎と耕作放棄地を活用しながら、都会と農村を住民が交流できる機会を創るプロジェクトを立ち上げました。
地元の公民館長の協力を得ながら、小さく活動を進めていきましたが、結果としては、うまくいかなかったですね。地域の中には「誰もここには住まないでしょ」というあきらめの空気感が漂っていました。自分自身の経験不足もあり、地域の中で取り組んでみて、失敗を経験しました。
その話は全国的な地方の傾向なんでしょうね。よく聞く話です。
アミタを退職した後、2014年に一度山梨県に戻って転職したんです。山梨県が独自でやってる期間限定の研修生制度があり、耕作放棄地を活用して都市部と農村をつなぐ事業を行うNPOのスタッフになりました。
戻ったのは地元の大月市ですか?
いえ、北杜市という長野県寄りの、標高1,000mの高所にある限界集落です。高齢化率も60%を超え、冬はマイナス20度になるような地域に住んで、課題となっていた耕作放棄地をNPOが借りて運営し、そこに都市部の企業研修を受け入れる事業を担っていました。
ただ、受け入れる為には作物の維持管理をする必要があり、田んぼや畑の管理をしつつ、受け入れのための調整をするコーディネーターをしてました。農薬とか除草剤とかは基本使わないようにしてたので、人力で草をとったり。それを1年半程。
そこに、名古屋に暮らしていた頃からつながりがあった、広島県尾道市の尾道自由大学という、主に大人向けに自由な学び場を創っている会社があり、研修制度が終了する頃に「スタッフでこないか」とお声がけ頂いたのをきっかけに尾道市へ行くことにしました。それが2016年です。
名古屋在住の頃に尾道と繋がりというのはどういうことでしょう?
新卒で名古屋の営業所配属になった時、友人も知り合いも居なかったんですよね。最初は仕事に必死だったんですけど、数カ月もすると「このまま家と会社の往復でいいのか」と思うようになってきたんです。
それで「名古屋でもっと繋がりを作りたいな」と思ってた時に、大ナゴヤ大学というまちをまるごとキャンパスに見立てた生涯学習の取組があって、ちょうど開校から一年ということで「地下鉄の名城線という環状線を使ってすごろくします」みたいなイベントを見つけたんですよ。
大ナゴヤ大学、有名ですね。
参加するようになってから知り合いも増えて、学びの場や生涯学習に可能性を感じたんですよね。まちのことを知って興味が湧いてくるし、名古屋や愛知県にも愛着を持つようになって、自然と好きになっていって。その流れで、旅行で多い時には年に3,4回通ってた尾道でも尾道自由大学が出来ることを知って、設立説明会から参加してました。
それからは尾道自由大学へ通うために尾道へ行くようになって、お声掛け頂いたという経緯です。それまではずっと参加する側だったんですが、実際に授業を作る側になりました。
尾道にはどれくらい居たんですか?
ちょうど一年くらいですね。2016年の間です。要はここで、妻と出会ったんですね。尾道自由大学で植物油をテーマにした授業があり、先生として妻がきてたんです。
なるほど、そう繋がるんですね!(笑)
そうなんです(笑)
結婚の話になった時、妻は西粟倉村で植物油の搾油を事業としてやってたので、『結婚するなら住むのは西粟倉村だよ』と前もって言われてたんです。それ自体は僕も最初に勤めた会社が西粟倉村の地域づくりに関わっていたこともあって興味があったので、これも何かの縁かなと思って。『じゃあ僕がいきます』となりました。
奥さんの思いを汲んで丹波市へ移住
西粟倉村ではどういう暮らしだったんですか?
2017年から住み始めて、2018年10月から丹波市に引っ越すまでの間は、その後に新設された図書館・公民館の館長をしていました。村の広報で館長募集の案内を見て、小さいころから図書館が好きで、学生時代にはよく利用してたので、思い切ってエントリーしました。
といっても、図書館運営経験もなければ当時は司書の資格を持ってなかったですが、ご縁をいただきました。館長になってからは、自費で県内外の図書館を巡り、運営の勉強をしていました。
なるほど。丹波行きの話は以前の奥さんの話では割と突飛に決まった感じでしたがどうだったんでしょう?
そうですね、植物油を搾るためには種を育ててくれる農家さんの協力が必要で「若い農家さんが活躍してる地域に思い切って拠点を移したい」という思いがあって、たまたま丹波市は妻の知り合いが多かったのもあって、『私はもう丹波って決めてるから』みたいなことになりました(笑)
妻の事業は僕も応援したいと常々思っているので、「じゃあ物件探すか」と探し始めたら、すぐにいい物件が見つかって、あれよあれよという間に決まって、引っ越したのが2022年5月でした。まさか山梨県に生まれた自分が西日本で家を買うとは、全く想像してなかったですね。
すぐ物件見つかってよかったですね。あと、「油」がつく集落名で(笑)
そうそう、実は仕事も割とすぐ決まったんですよ。引っ越し準備の関係で丹波市に来てた時に、たまたまゆめタウンで市民プラザを見つけて。その時にお話しした方が、今の仕事をしている団体の代表でした。その後、社会教育や生涯学習の専門性がある人材を探しているというお誘いをいただき、丹波市に引っ越し後に就職することになりました。
そんなタイミングいいことあるんですね(笑)
僕はちょうど社会教育士の資格がもうじき取れるっていう時期で、公民館や図書館での経験もあったので、「お願いします」ということになりました。早くに仕事が見つかって、妻にも驚かれましたね。
丹波にいくぞっていう話になった時、蔦木さんの心境的にはどうだったんですか?
引っ越しの件について、僕は途中くらいまではやっぱり実家のある山梨県やゆかりのある愛知県のどこかにみたいな思いは少しありましたね。妻の実家は但馬なんですが、『昔住んでた愛知県だとどっちの実家にもちょうど真ん中くらいだね』とか色々話合ったんですけど、それは選択肢にも上がらず、植物油の事業の都合も考えるとやっぱり「丹波で」という妻の意志が固かったですね。
あと、妻のご両親には西粟倉村の頃から色々お世話になってたんです。義父が左官工で、丹波市の家のリフォームもお世話になって。妻の実家にも以前より近くなった事もあって、支援してもらえるのはやっぱり助かるので。
全力応援ですね(笑)奥さん、こっち来てからめちゃくちゃ便利になったと喜んでおられましたが。
そうなんですよ。以前は食料品の買い物のために隣町までいかないといけなかったりとか、まとまった買い物となれば車で45分くらい走って鳥取市内に出るとかいう生活で。当然、前はそれが当たり前なので不便と感じてなかったんですけどね。
今は家からゆめタウンまで車で10分弱。それ以外にもユニクロ、ホームセンター、飲食店などもいっぱいあって、『これ、とても便利だな』ってなりましたね。日常で必要なもので、そろわないものがほとんどないですもんね。
日常の買い物は困らないですよね。
最初、自治会のみなさんにだいぶ心配されたんですよ。『二人ともこんな田舎で何もないところで大丈夫?生活できる?』って。その時には今のような説明をして、『今の方が便利です』みたいな(笑)
妻は幼いころから雪が多く積もる地域で暮らしていて、それが嫌だったみたいで。『冬場に朝から雪かきに追われる生活は卒業したい』と。なので、丹波市内でも、氷上町、柏原町、春日町の3地域に絞って物件を探していました。
丹波市での暮らしとこれからのこと
これまで色んな地方に行かれてたと思うんですが、丹波の人の第一印象はどうでした?
「優しくて親切な方が多い」という印象ですね。僕の家が入る隣保では新年会したり旅行があったりと元々の絆が強くて、我々夫婦のことを気にかけてくれる人が多くて温かいなあと感じました。自治会マッチングの時の自治会長が、同じ隣保の方だったので、引っ越し後も丁寧に教えていただき、すぐに溶け込むことができました。
お仕事も、引っ越しと同じく2022年5月から働き始めたんですか?
引っ越しの1か月後から働いています。丹波市市民プラザや丹波市市民活動支援センターを運営している特定非営利活動法人丹波ひとまち支援機構という中間支援組織のスタッフをしています。
蔦木さんは丹波市初の社会教育士ということで、その観点から見た丹波市はどうですか?
そうですね、丹波市は合併後に行政が運営する公民館がなくなったためか、生涯学習事業のターゲットが年輩層中心になっており、現役世代の学びの場が少ないように感じます。誰もがいくつになっても学び続けられるために、社会教育士として取り組めることがあるのではと感じているところです。
地域づくりも、子ども、若者、女性、シニアの多世代で多様な方が参画でき、次の世代に繋いでいくことが必要だと感じています。そのためには、話し合いによって誰もが納得して進めていくことが大切ですが、慣れていないと難しかったりしますよね。そこで社会教育士のような、社会教育の知識やファシリテーション・プレゼンテーション・コーディネートスキルをもった人が増えてくると、対話の場が自然と生まれて、促進されていく気がしています。
確かに。繋いでいく動きは必要な気がします。
「学ぶことは難しいことではなく、誰かと話したり、活動に参加したり、何かを体験したりすることも学びだと思います。学びをもっとゆるくとらえることで、もっと人がつながったり、誰もが楽しめる場が作れるんじゃないかなと思ってるんです。丹波市内には現在、社会教育士が4人います。今年の4月には「たんば社会教育士コミュニティ」という任意団体を設立したので、緩やかに社会教育士の輪を広げていきたいなと思っています。
仕事の今後の展望はどうでしょう?
一昨年度からコミュニティ・スクールや地域学校協働活動を支える学びと交流の場である、丹波「学校を核とした地域づくり」プロジェクトを担当させてもらっていて、まずはコミュニティ・スクールや地域学校協働活動を市民に知ってもらうための学びの場づくりからやってるんですが、これはまさに社会に必要とされる学びの場なので、社会教育士としての役割が発揮される部分だなと。
それに、僕自身が以前からやりたいと思っていたことで、「みんながセンセイ!みんなが生徒!たんばまなびのマルシェ」という事業を昨年度からやってまして、結構な反響があったんですよ。結果として、センセイ募集の定員をオーバーして、コマ数増やしたくらい。しかも当日の参加者は30~40代の方が多くて、現役世代の学びの場の選択肢を増やすことができました。
この誰もが先生になれる、みんなで授業をつくるみたいな場はすごく丹波市だと活きるし、どんどん広がっていくなと感じています。自分の得意をもっている人が丹波市は際立って多いので、どんどんピックアップして、学びの場を創っていきたいなと思っています。
なるほど。暮らしの方はどうですか?
山梨出身ということもあり、日本ワイン好きで、自宅に「酒と油とワインのお店 kamiyuri」という屋号のお店を構えて、日本ワインの販売をやっています。お店では妻が油を販売しているのと、西粟倉村の頃からの友人で酒屋をしている女性が朝来市で家を持つことになって、自宅周辺で販売できる先を探してたんです。それで一緒にやることになって。
彼女は酒販業があるので、今は鳥取市にある兎ッ兎ワイナリーさんと、宮城県の南三陸ワイナリーさん、あと福井県の白山ワイナリーさんから直接仕入れさせてもらってます。実際に自分が足を運んで、美味しいと思ったものだけ扱うことにしています。
そんなに儲かるものでもないので今は趣味的な感じですけど、日本ワインの魅力を丹波市の方に伝えていけたらと思っています。
割と仕事三昧な印象なんですが、夫婦そろってオフの日はどうされてるんですか?
僕は昔から休日は出かける派で、年に10回以上は映画を見に行くんですけど、妻は家でゆっくり過ごしたい派で。でも、僕が熱心に誘って時々一緒に見にいくようになりましたね。最近では、「ゴジラ-1.0」など、僕自身は何回か見たやつとかなんですけど。
丹波市やその周辺のことももっと知りたいというのもあって、月に1度くらいは妻が予定を合わせてくれて、市内とか近隣の福知山とか西脇とか、何か特別な理由がある訳でもなくふらっと行ったりしてますね。
奥さんはどちらかといえば休日出店側の人なので、休み合わせるのも大変そうですね。
最近妻から『もっとちゃんと休みなさいよ』と注意されるんですよ。いくつかの活動をしているので、その作業をするためにパソコンを開いちゃうんですね。以前は、妻の方が仕事していると思ったんですけど、本人の中ではちゃんと切り分けているみたいで。見習わないといけないところです(笑)
奥さんはもう引っ越したくないとおっしゃってましたが(笑)
自宅と工房を丸ごと引っ越しするのはほんと大変でしたよ。搾油の関係の機械がすごい重量物だったんで。
丹波市での生活は大きな不満はないし、気候も人も含め、暮らしやすいなと。社会教育士としてのスキルと図書館運営の経験とか、可能性が活かせる機会をいっぱいもらってるので、有難いですね。
日本国内には1700か所を超える地方自治体が存在する中、1つの自治体の中にもまたいくつもの地域が存在するので、一言で“田舎暮らし”といっても括り切れない側面があります。丹波市の生活においても「不便だ」という人もいれば「便利だ」という人もいて。蔦木さんの『可能性が活かせる機会をいっぱいもらってるのが有難い』というお話を伺って、丹波市の暮らしにおいてまた新しい視点をもらったような気がしました。